数年前から当施設で暮らしておられるAさんは、もともと知的障がいがあり、身の回りのお世話が必要で、在宅での暮らしは難しい状態であった。しかし生活の一部の支援を行えば、バリアフリー環境では移動も概ね自力可能で、意思疎通も問題なく、施設の中では比較的自立度が高い生活を送っている。性格も穏やかで、行事等でたまにお酒を飲まれる時があるが、とても楽しいお酒で、素敵な笑顔を向けてくれる素敵な人である。

Aさんには奥様と子供さんがおられるが、家族全員が知的障がいというハンデキャップを抱えている。それでも奥様が元気な間は、家族で支えあって、様々な支援サービスを利用しながら4人で暮らしておられた。Aさん自身も市の管理する機関で、営繕の仕事をしながら収入を得ていた。

しかしAさんがお年を召して退職された後、転倒骨折し医療機関に入院した頃から、奥さん自身も自分の身の回りのことで精一杯となり、Aさんの骨折が完治した後の退院検討時に、在宅での生活が難しいとされ、当施設入所に至った。

奥さんも要介護認定を受けていたので、居宅介護支援事業所の介護支援専門員の支援を受けながら、しばらくは在宅で暮らしておられ、その間は、当施設にも定期的に面会にみえられていた。その時、Aさんは当然のことながら、面会に来たご家族と逢われることを楽しみにしておられた。

しかし奥さんが病気を発症し、病状が急激に悪化し入院生活を余儀なくされた。

奥さんが入院されている病院は、当施設から車で約50分程度かかる場所にある。奥さんの病状がさらに重篤な状態になっているとのことで、当施設では、Aさんが何度かお見舞いに行く機会をつくろうと、施設の車を出して職員が付き添って、施設・病院間を行き来する機会を設けていた。

そんな中で師走という時期を迎えたが、その時Aさんにもたらされた知らせは、奥さんが多臓器不全で危篤状態になり、今日明日の命であるというものであった。

その知らせを受けてすぐ、当施設からAさんを乗せて病院まで車を走らせ、長い時間奥さんに付き添ったが、その日はなんとか状態が悪化せず、Aさんは一旦施設に帰ってきた。

その翌日の夕方、いよいよ最期のお別れの時間が近いという連絡が入り、Aさんを病院に送ることとした。この日、Aさんは奥さんの最後の瞬間をお見送りした後、施設に戻られた。

最愛の人を亡くしたショックはいかばかりかと想像に難くないが、Aさんは気落ちした表情を見せることなく、翌日の通夜、翌翌日の告別式にも列席し、喪主としての務めを果たされてきた。

僕も病院や葬儀場までの送迎を何度か行っていたので、Aさんが施設に戻られた際ときには、施設長室までわざわざ訪ねてきてお礼を言われた。その時、少しお話したが、最愛の人を失った寂しさを訴えておられたが、同時に最愛の人を看取り、葬儀を執り行った満足感を口にされていた。

このように施設を利用されている方が、その家族を別な場所で看取るという機会はあまり多くはない。

しかし施設における看取り介護で、命がリレーされる様をこのブログでも紹介しているが、そのことは逝った人にも、遺された人にも、それぞれに意味があることだろうと思え、環境さえ整っておれば、家族を看取るために外出することは当然あって良いし、施設はそのことをきちんと支援すべきであるというのが当施設の考え方である。

このことは暮らしの支援を行う施設サービスにおいて、スタンダードサービスであり、特別なサービスではないから、施設が車を出して送迎する限りにおいて送迎費用が自己負担であるとも考えない。

むしろ恐れるのは、施設で暮らしているというそのことだけで、家族を看取る機会さえ奪われてしまうことである。場合によっては、自分の最愛の人の死さえ隠されてしまうことがあることがあって、それは間違いであるということについては、「死を告げる意味と責任」という記事でも主張しているところである。

最愛の人を看取るということ、家族を看取るということは、世間では実に当たり前のことである。命の炎が燃え尽きる最期の看取りの場に、家族である誰かがそこにいるべきであるかどうかなど議論にさえならない。ましてや自分の肉親の死を伝えないなどという選択肢は存在しない。

それなのに、高齢であるという理由だけで、施設に入所しているという理由だけで、認知症であったり、身体の障がいがあるという理由だけで、そこに一緒にいる権利さえ奪われてしまう人がいるということは由々しき問題である。最愛の人の死を知らせてもらえない人がいるということは由々しき問題である。

「ショックを受けて体調を悪化させたくない」というが、当たり前のことを当たり前に行って受けるショックと、当たり前のことを当たり前にしてもいらえなかったことによるショックは、どちらが大きいのだろうか。その責任は誰がとるのだろうか。

喜怒哀楽すべての感情を抱いて生きていくのが人間の一生だ。事実を隠してすべての悲しみを排除できるわけがない。

最愛の人を失うことはショックで最大の悲しみであろう。しかし同時に最愛の人が息を引き取るその場所で看取るということは、遺される人が逝く人にこの世でできる最後の行為である。それを奪う権利は肉親にもないはずである。

Aさんはその哀しみを乗り越えて、看取った奥様の分も命の炎を燃やし続けてくれるだろうと思う。悲しみや辛さを思い出したその時は、我々がそっと寄り添って、Aさんを支える存在になろうとすれば良いだけの話ではないだろうか。

介護・福祉情報掲示板(表板)

人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。

「人を語らずして介護を語るな2〜傍らにいることが許される者」のネットからの購入は
楽天ブックスはこちら
↑それぞれクリックして購入サイトに飛んでください。