(昨日の記事の続き)
昨日の記事で指摘した点。
2.終末期(ターミナル期)であるという判断と、ターミナルケアを開始するという判断は、イコールにならない。
以上の点について考えてみたい。がんの場合の終末期の判断として、「一般的に認められている医学的知見」が存在すると言えるであろうことは昨日の記事にも書いたが、終末期であると医師が判断したからといって、必ずターミナルケア、もしくは看取り介護が実施されるとは限らない。
死生観は様々で、どこでどのように死を迎えるかという価値観も多様化しており、ターミナルケアを必要としないから、最後まで延命治療を行って欲しいという考え方もあるかもしれないし、延命治療もターミナルケアも、どちらも必要としないとして、静かにその瞬間に臨みたいという考え方もあるかもしれない。
このように考えると、終末期と判断する基準が、ターミナルケアもしくは看取り介護を開始する時期を基準にすることはできないと考えるのが一般的で、あくまでそれは、病状や身体状況から、回復不能で近い将来の死が予測される状態であると医師が判断すべきものである。
つまり、終末期であるという判断が行われることと、終末期に何をするべきなのかということは、まったく別な問題として論じられなければならないのである。そのことをしっかり区分して考えないと、終末期という時期判断だけで、個人の意思が無視されて、重大なものが決められてしまうということが起きかねないからである。
経管栄養の問題にしても、口から食物が摂取できなくなった時の対応について、医師を含めた第3者の「すべき論」から考えられるのはおかしい。それ以前に、自分が口から食物を摂取できなくなり、その状態から回復しないと見込まれた時に、どうして欲しいかという意志が尊重された上で、その人にとって最も望まれる状態となるためには、どうするかという専門的見地からの判断があるべきである。
そうであるがゆえに、自分が何を望んでいるのかを、意思表示できるうちに家族等にしっかり示しておき、できればそのことを書面に残しておくことが当たり前になる社会が望ましいと思う。
特養においては、施設利用開始時に、「看取り介護」が行われる施設であるのかどうなのか、行われるとしたら、それはどのような環境で、どのような理念と方法に基づいて行われるのかを説明するのは当たり前になりつつあるが、意思決定能力のある利用者が、その能力を保持しているうちに、経管栄養が必要になり、かつその状態から回復しない状態になったときどうして欲しいのか、あるいは終末期と判断された時にどうしてほしいのかを確認することはあまり行われていない。
それは死に関連した話題をタブー視する考え方が根深く存在していることが理由だったり、利用者自身の死につての問題を語ることが、利用者の精神的ダメージにつながるという考え方が存在しているからであろう。
しかし自らの人生の最終ステージを、どのような状態で過ごすかと言うことについて、すべての人が意思表示できる権利があり、その意思は最大限に尊重されるべきである。そうであるならば、施設の相談員等のソーシャルワーカーは、利用者との信頼関係を構築した後に、利用者自身の終末期の希望をも確認して、その意思に沿った支援を行うことについて約束しておくことは必要とされる支援行為で、否定されるなにものもないと思われる。
![延命に関する宣言書](https://livedoor.blogimg.jp/masahero3/imgs/9/f/9f1f58d7.jpg)
当施設では、強制ではなく任意で、上記のような宣言書をあらかじめ書いておくことができることを意思決定の可能な利用者には告げている。その書面を書いていただいた場合には、施設で保管しておくようにしている。そして宣言書を書いた方が、実際に終末期になった場合、この書面の意思を最大限に尊重するように支援するのが施設の務めであると考えており、ソーシャルワーカーである相談員は、その実務担当者となる。
このことについては、12/15(日)名古屋で行われる今年度2回目の日総研セミナー「施設相談員に求められる役割 〜連携とマネジメントスキル〜」から講義内容の中に入れてお話ししたいと思う。
なお、同セミナーは3回目以降を、年が変わる1/25仙台、1/26東京、2/22福岡、2/23岡山の4県で実施する予定になっているので、参加希望者の方は、貼り付いたリンク先からお申込いただきたい。
介護・福祉情報掲示板(表板)
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昨日の記事で指摘した点。
2.終末期(ターミナル期)であるという判断と、ターミナルケアを開始するという判断は、イコールにならない。
以上の点について考えてみたい。がんの場合の終末期の判断として、「一般的に認められている医学的知見」が存在すると言えるであろうことは昨日の記事にも書いたが、終末期であると医師が判断したからといって、必ずターミナルケア、もしくは看取り介護が実施されるとは限らない。
死生観は様々で、どこでどのように死を迎えるかという価値観も多様化しており、ターミナルケアを必要としないから、最後まで延命治療を行って欲しいという考え方もあるかもしれないし、延命治療もターミナルケアも、どちらも必要としないとして、静かにその瞬間に臨みたいという考え方もあるかもしれない。
このように考えると、終末期と判断する基準が、ターミナルケアもしくは看取り介護を開始する時期を基準にすることはできないと考えるのが一般的で、あくまでそれは、病状や身体状況から、回復不能で近い将来の死が予測される状態であると医師が判断すべきものである。
つまり、終末期であるという判断が行われることと、終末期に何をするべきなのかということは、まったく別な問題として論じられなければならないのである。そのことをしっかり区分して考えないと、終末期という時期判断だけで、個人の意思が無視されて、重大なものが決められてしまうということが起きかねないからである。
経管栄養の問題にしても、口から食物が摂取できなくなった時の対応について、医師を含めた第3者の「すべき論」から考えられるのはおかしい。それ以前に、自分が口から食物を摂取できなくなり、その状態から回復しないと見込まれた時に、どうして欲しいかという意志が尊重された上で、その人にとって最も望まれる状態となるためには、どうするかという専門的見地からの判断があるべきである。
そうであるがゆえに、自分が何を望んでいるのかを、意思表示できるうちに家族等にしっかり示しておき、できればそのことを書面に残しておくことが当たり前になる社会が望ましいと思う。
特養においては、施設利用開始時に、「看取り介護」が行われる施設であるのかどうなのか、行われるとしたら、それはどのような環境で、どのような理念と方法に基づいて行われるのかを説明するのは当たり前になりつつあるが、意思決定能力のある利用者が、その能力を保持しているうちに、経管栄養が必要になり、かつその状態から回復しない状態になったときどうして欲しいのか、あるいは終末期と判断された時にどうしてほしいのかを確認することはあまり行われていない。
それは死に関連した話題をタブー視する考え方が根深く存在していることが理由だったり、利用者自身の死につての問題を語ることが、利用者の精神的ダメージにつながるという考え方が存在しているからであろう。
しかし自らの人生の最終ステージを、どのような状態で過ごすかと言うことについて、すべての人が意思表示できる権利があり、その意思は最大限に尊重されるべきである。そうであるならば、施設の相談員等のソーシャルワーカーは、利用者との信頼関係を構築した後に、利用者自身の終末期の希望をも確認して、その意思に沿った支援を行うことについて約束しておくことは必要とされる支援行為で、否定されるなにものもないと思われる。
![延命に関する宣言書](https://livedoor.blogimg.jp/masahero3/imgs/9/f/9f1f58d7.jpg)
当施設では、強制ではなく任意で、上記のような宣言書をあらかじめ書いておくことができることを意思決定の可能な利用者には告げている。その書面を書いていただいた場合には、施設で保管しておくようにしている。そして宣言書を書いた方が、実際に終末期になった場合、この書面の意思を最大限に尊重するように支援するのが施設の務めであると考えており、ソーシャルワーカーである相談員は、その実務担当者となる。
このことについては、12/15(日)名古屋で行われる今年度2回目の日総研セミナー「施設相談員に求められる役割 〜連携とマネジメントスキル〜」から講義内容の中に入れてお話ししたいと思う。
なお、同セミナーは3回目以降を、年が変わる1/25仙台、1/26東京、2/22福岡、2/23岡山の4県で実施する予定になっているので、参加希望者の方は、貼り付いたリンク先からお申込いただきたい。
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話は変わって、季節の変わり目は何となく疲れやすいですね。お体にお気をつけ下さい。