看取り介護は、グリーフケアを行うことで初めて完結するという意見がある。
グリーフケアとは、大切な人を失って悲嘆(グリーフ)感を持っている遺族等をサポートするためのケアであり、単純な「死後支援」というものではない。
逆に言えば肉親を亡くした全ての人に、グリーフケアが求められるわけではない。そういう意味において、介護施設や介護事業所の一部の職員が、看取り介護(ターミナルケア)は、グリーフケアと一体で考えるべきだと主張することには違和感を覚える。
勿論、そうした支援も必要な人はいるだろうが、看取り介護とグリーフケアは、対象となる人も、その方法もまったく異なるものであり、両者は別にして考えるべきである。
そもそも亡くなった方の一周忌に、遺族に手紙を出したり、お線香をあげに行くことがグリーフケアだと思っている人がいるとしたら、それは違うだろうと言いたい。そういう方法で、「私たちも亡くなった方を忘れていませんよ。」という意思を示すことが、悲嘆感に襲われている遺族の慰めになる場合があるかもしれないが、機械的にそのようなことを行うことがグリーフケアだと考えるのは、遺族の本当に悲しみに寄り添う方法ではない。
僕の施設では、多い年で20人程度の方々が亡くなられる。その全ての方が看取り介護の対象になるわけではないが、急死以外では9割近い方が看取り介護の対象となっている。それらの方々の看取り介護期間は様々であるが、ほとんどの場合、家族が職員のサポートを受けながら、できることをやれたと満足感を持って最期の瞬間を看取ることができているように思われる。そのことは看取り介護終了後カンファレンスにおける遺族の方々の発言、もしくは参加できない場合のアンケート結果に表れている。
そうした方々は、大事な肉親が亡くなった瞬間は悲しみにくれ、泣いておられても、「大往生を看取った」、「楽になったね」と、ある種の満足感を抱いており、身内を失った喪失感や悲嘆感を後々まで引きずらない場合が多い。
様々な事情で最期の瞬間に間に合わなかった方も、職員から息を止める瞬間の様子を聞いて、安らかに旅立っていったことを知り、安堵すると同時に、そのことに悔いを残さず、悲嘆感を引きずらないケースがほとんどだ。
「安らかであることを願う日々」で紹介した看取り介護対象となった方の奥様は、夫の旅立ちの瞬間に立ち会うことはできなかったが、最期の瞬間の様子を、息を止める瞬間に立ち会ったケアワーカーに何度も様子を確認され、安らかな最期であったことを確認して安堵し、この施設に任せてよかったと涙されていた。それは大事な人を失った悲しみの涙であると同時に、最期の瞬間を安らかに見送ることができる場所を選択できたという満足の涙でもあり、悲嘆感にくれて前を向けないという状況ではなかった。
大事な人を看取った後は、その命が残されたものにつながっていくがごとく、看取る瞬間の模様も大事な思い出とする人がほとんどであり、グリーフケアが必要なほど、悲嘆感を引きずっている方はほとんどいない。
そうであるがゆえに、当施設で特別にグリーフケアの実践として語ることのできるケースは今のところ存在していない。
ところで、遺族の方々が、利用者の亡くなったあとも施設を訪問してくれて、我々を励ましてくれことが多々ある。
明日の土曜日は、年間を通じて当施設で最大のイベントである、「緑風園まつり」が行われる予定になっている。そこには利用者の家族の方や、ボランティアの方々など、多数の方々が施設を訪れてくれる。
この案内は、家族通信でしか行っていないが、毎年このお祭りが近くなると、過去に緑風園で生活を送り、その後亡くなられた方のご遺族が施設を訪れ、「お祭りにお使いください」と飲み物等を寄付してくださる。一昨日も5年前に亡くなられた方のご長男が寄付の品物を持参してくれた。そして懐かしそうに施設内を歩き、お母さんが暮らしていた部屋をご覧になっておられた。
このように利用者の方が亡くなられたあとも、遺族の方が何年も続けて施設に来てくださることほど、我々の力になるものはない。寄付などをお持ちにならないでも、来てくださるだけで、ここの暮らし、我々のサービスに満足していただいたのだろうと嬉しく思える。
葬儀を終えたご遺族が、たくさんの親族の方を連れて、「この部屋が、母が最後まで過ごした部屋だよ。」と案内されることもある。葬儀のあとではなく、一周忌の時に、「少しだけ父が暮らしていた部屋を見せてください。」と親族の方を連れてくるご遺族もおられる。
それだけ最期に過ごした部屋、最期に過ごした場所というのは、遺族にとって意味のある場所なのだろうと思う。そこでどのような最期の時を過ごしたのか、どのような支援が行われたのかは、そこでお亡くなりになった方だけの問題ではなく、ご遺族の方々にもとっても重大な問題であり、ご遺族の方々の胸深く残っていく思いに重大な影響を与えるものなのだろう思う。
そういう意味では、ご遺族が、「どうしてあんな施設に最期を任せてしまったんだ。」と、我々自身がご遺族の悲嘆の元になることがあってはならないと思う。それは許されないことだと思う。
看取り介護は、それだけ責任が伴う介護であるが、誰しもが安心して安楽に最期の瞬間を迎えるお手伝いを出来るという意味は、その人の命が遺族につながり、永遠のものとなるお手伝いができるという意味である。そのことに誇りと責任を持って、正しい知識と技術を身に付け、日々向上心を持ちながらケアに努めることで、我々はたくさんの人々の命のリレーの中で、遺族やその周りのたくさんの人々に、幸せな思いをつなげることができるだろう。
介護とはそのように、無限に続く幸せ樹形図を描くことができる誇り高き職業である。そのことを忘れず、その誇りに恥じないケアの方法論を作り上げていかねばならない。
介護・福祉情報掲示板(表板)
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在宅で看取りの支援に関わることがあり、人生の最期に立ち会うことができる責任重大な職業だと感じていますので、残された家族にグリーフケアが必要な場合は最善のグリーフケアが提供できるように支援していきたいと思います。
(正直なところ、毎回これでよかったのかなと反省しますし、若いスタッフは特に、家族以上に引きずることもありますので、スタッフの支援も必要になる時もあります。)