僕は非常勤講師という立場で、介護福祉士を目指す学生に様々なことを伝えている。それは教えにはならないかもしれないが、伝えるべき思いであることは間違いない。

天使のように優しい人でなくてもよい、普通の人でよい、ということも僕が伝えたいことだ。

しかし普通の人とは、人の哀しみに鈍感な人ではないはずだ。介護は究極的には、世の中の幸福に寄与する行為だと思う。そうであれば人の喜怒哀楽に敏感な心を持つ人が、本当の意味での介護ができる人だ。しかしそれは決して達人の領域ではなく、普通の人が普通に達することができる領域であろうと思う。

なぜなら人である我々は、誰から教えられるものでもなく、自分自身の喜怒哀楽の感情というものを持っているからだ。自分の心から学んで、相手の立場にたてば、それは自ずと見えてくるものだろうと思う。

介護者が、人の幸福に寄り添う存在になろうとすれば、何より人の心の痛みに敏感である必要があると思う。

例えば認知症の人は、認知症という症状を持つに至ったことにより、その人の本来持っているパーソナリティとは全く違う行動をとり、そのことによって他者から奇異な目で見られてしまうことがある。でもそれは本当の姿ではないのだ。我々は、本当の自分になれない人々の心の痛みを想像し意識すべきである。

昨日の授業では、「アルツハイマー型認知症の方の行動心理症状への支援方法」というテーマで、グループ学習を行ったが、そこで取り上げた認知症の方とは、暴力や暴言が激しい運動能力の衰えていない男性であった。

しかしその方の過去の生活歴の中には、奥さんからの聞き取り内容として、「口数は少ないものの、とても優しく、昔は夫婦喧嘩を全くせず、退職後妻の家事を手伝ったり、朝食作りなどを嫌な顔一つしないでしていた。」という記述がある。本来そのようなパーソナリティを持っていた人が、認知症という症状を呈すようになった後は、家族である妻や子や、本来最も可愛い存在であるはずの孫にさえ暴力を振るうようになり、そのことで家族からも疎まれる存在になってしまったケースである。

グループワークは、症状理解とその対応を考えるのが主たる目的であるが、その前に僕は学生たちに、本来のパーソナリティではない症状に基づく行動をとることになって、そのことで周囲の人々から怖がられたり、嫌われたりするということを悲しいと思いなさいと伝えている。本来の自分ではない行動により、最愛の妻や子や孫に対し、暴力を振るってしまうようになった人の心を痛ましいと思い、その人を愛する心を失わないようにして欲しいと伝えている。その心がベースにないと、我々は常に間違ってしまうと伝えている。それが僕のやり方である。

もちろん、我々にもコントロールできない感情があるから、認知症の人から暴力を振るわれたり、理解できない反応に出会うと、カッとすることはあるわけである。そうした感情をなくせというのではなく、そうした感情の有り様を自分自身で理解しようと努めた上で、その感情をコントロールし、なおかつそうした行動をとる人の本当の心は痛みを感じているのだと思いを寄せることが大事だと思う。

認知症の人々は、自分の置かれた状況が理解できないことが多いだけではなく、自ら抱く自身の危機感や、困り事も訴えられないことが多い。その時、その人に変わって、認知症の人が訴えたい感情を代弁するのが我々の役割である。そのためにも、その人の抱く喜怒哀楽の感情に常に敏感でなければならない。我々が守らないと、守れないものがあるからだ。それが我々の役割である。

しかしこの業界にも、人の心の痛みを知るという、普通の感覚をもたない人が存在する。

今年4月に報道された虐待事件でも、自らの危機を訴えられない認知症の方が被害に遭っている。
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(事件概要は以下のとおり:2013年4月29日 読売新聞より)
玉名市の通所介護事業所が、60歳代の認知症の女性を送迎用の車にシートベルトで拘束していたことが3月に発覚した。職員は午前中、デイサービスを受ける女性を車で迎えに行き、夕方まで事業所に止めた車内に拘束した。昼食も車でとらせ、施設内に入れるのはトイレの時だけだったという。県は同月、運営会社の事業所指定を取り消した。

県高齢者支援課によると、この事業所の経営者は、県の調査が入った昨年10月まで約1年間にわたって女性を拘束したことを認めた。女性が当初、指示に従わず、大声を出すなどしたことから拘束を始め、「車内の方が本人も落ち着く」と都合のいい理由をつけて常態化したらしい。認知症が進んでいた女性は、拘束の事実を家族にも伝えることができなかった。
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このような対応には、常識はずれの管理者だけが関わっていたわけではないはずだ。たくさんの従業者が、なぜこのような人道に背いた行動を容認してしまうのだろうか。介護事業者としてではなく、人として許されない行為を、どうしていとも簡単にしてしまうのだろう。その一番の原因は、人の心の痛みに鈍感になってしまうという感覚麻痺ではないのか。

介護技術や知識は、経験によってある程度獲得できるものだろうと思う。しかし根底に抱くべき人間愛を伴う人に対する思いは、意識しない場所では麻痺し低下するものだろうと思う。場合によっては経験によって、それは低下してしまう恐れさえあるものだ。

福祉援助や介護サービスには、非科学的で目に見えない愛情が必要なのである。なぜなら人間そのものが、目に見えない感情を持ち、心の揺れという非科学的なものに影響される存在だからである。誰しもが愛情をもろ目ているのだ。それが人間という存在なのである。

そこへの思いを失う介護など、ありえないと思う。

大事なことを覚えておいてほしい。人の「死」とは、個体死・肉体死だけではないのだ。心を殺されるという精神死もあるということだ。そして心を殺されてしまった人は、二度と人として立ち直れないかもしれないということだ。

心を殺しても、罪にならないかもしれないが、心を殺す行為は殺人となんら変わりのない許されない行為なのである。
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