先週木曜日に北海道新聞に掲載された、「特養の入所順位の決め方」に関する特集記事について、8/2金曜日のブログ記事で紹介しているが、その末尾に次のように今日の記事の予告を書いている。
『施設名は出されていないが、札幌市内の施設で、胃瘻増設者を一切受け入れていないという例が示され、その理由が、「最期まで口から食べてもらい、自然なみとりを行うことを方針にしているためです。胃瘻の方から申し込みがあれば、療養型の施設などを紹介しています。」と書かれている部分がある。
僕の施設や、医療ニーズの高い人の数の上限を定めている施設は、その名称が記事に書かれているが、この施設だけは匿名で施設名が書かれていない。記事を書いた記者も、この主張と、その他の施設の主張に何かしら隔たりを感じたからではないだろうか?
僕もこの施設の考え方には違和感を覚えざるを得ない。そのことはまた別な問題なので、月曜にも論評させてもらいたい。』
昨日は、その前々日に厚労省が補足給付の支給基準を見直す方針を示したという大きな問題が表面化したため、そのことを記事にしたため、特養の入所判定に関する上記の問題に触れた記事を書かなかったので、今日はあらためてこのことについて考えてみたい。
最期まで口から食物を摂取しようと試みることは重要である。そのことの延長線上に、口から食物を食べることができなくなった時に、鼻腔栄養や胃瘻による経管栄養などを拒否して、ターミナルケアに移行するという判断が許される場合があるだろう。
現にベストセラーとなっている二人の医師の本には次のような文章がある。
理想的な死に方は、点滴、酸素吸入などの医療行為をいっさい受けない“自然死”だ (中川仁一医師著:「大往生したけりゃ医療とかかわるな」・幻冬舎新書)
体が衰弱し口から食物を摂れなくなってきた高齢者に過剰な高カロリー点滴を施して延命を図るのは、百害あって一利なし。点滴するにしてもほんのわずかな水分だけにして、あとは文字通り「枯れるように最期を迎えさせる」というのが、本人にとっての苦痛が最も少ない (石飛幸三医師著:「平穏死のすすめ」講談社)
しかしその考え方の根底には、そもそも胃瘻増設は今から約30年近く前に、子供の食道狭窄に対する応急処置として行われたのが始まりで、回復可能な状態が予測される治療の一つであって、回復不能な老衰の果てまでそれを行うのは治療とは言えないのではないかという意味がある。
例えば胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能であっても、その病状等から口腔摂取できるまでに回復する見込みがないと判断できる場合は、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期と判断して、経管栄養を行わずに必要最低限の抹消点滴のみで静かに最期を看取るという選択肢があって良いだろう。
だからといって全ての高齢者の経管栄養を、悪であるかのように捉えてはならない。個別の病状を無視して胃瘻を増設しない方が良いと考えてしまうことは間違っていると思う。胃瘻増設している人を、看取り介護の方法を理由に、すべて拒否している札幌市の某施設とは、この部分の考え方が根本的に間違っているのではないか?
高齢者が疾病により食物の口腔からの摂取が不可能になる状態が、すべて「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態」とは言えない。むしろ「病状が重篤だから高齢者には治療が必要ない」と判断することがあってはならないし、「もう年だから」と年齢だけで終末期と決めてしまうことがあってはならないということである。
高齢者の積極的な治療は無駄だといった価値観は徹底的に排除されたうえで、人間として安らかに最期を迎える状態とはどのような状態かという観点から「自然死」というものを考えていかねばならないし、経管栄養を行うか否かは、その過程で考えられるべきものだろう。
そしてその時に、経管栄養による栄養管理を実施し、回復を願い治療を続けることはあって当然である。その後、治療を尽くしたにも関わらず回復困難であった場合、始めて自然死として看取り介護を受け入れるという判断になっていくのだろうし、その中には、口腔からの食事摂取までは回復しないが、口からものを摂取できなくても、臥床状態から回復し、生活の質が保たれて、満足した暮らしを継続できるという高齢者も存在するだろう。そうした状態の人を、「最期まで口から食べてもらい、自然なみとりを行うことを方針としている。」という理由で、入所拒否することは、正当な理由とは言えず、法令に違反しているとしか思えない。
そもそも経管栄養にするかしないかは、その是非について、治療にあたる医師が決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではないのである。対象者が、経管栄養を行うかどうかを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ判断する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。そうであるがゆえに、胃瘻を増設して生きる人は、適切に看取ることができないかのような価値観の押しつけは、人間の命の価値に差をつけるかのような不遜な考え方であると指摘しておかねばならない。
その怪しさ、きな臭さに気がついているから、この特養の名称は記事にできなかったのではないだろうか。
どちらにしても、人が最期の時をどこでどのような人と共に過ごすかという選択であるはずの「看取り介護」の方法を、施設の考え方一つで、その方法を押し付けようとするような特養で、本当の意味の「看取り介護」ができているとはとても思えない。なにか大きな誤解をしていると思う。
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それ以上になると管理が難しいからです。
今その限界数です。
masaさんの話を読ませていただいて、ショートステイ利用者様で最近に夜間帯で呼吸苦と腹痛が起こり、家族も希望され緊急搬送した利用者様がいたのですが、病院のドクターに「高齢者だし治療の対象じゃない!!救急車なんか使って!!」とお叱りをうけ夜中に病院まで迎えに行ったケースがありました。
その翌日大量の吐血。
家族様に連絡しましたが、その時のことがトラウマか?「嘱託医でこちらで対応してくれたらいい。もう仕方がない。」と・・・。
本人様は意識もあり本人が辛いのはもちろんスタッフも辛く・・・。
「治療の対象じゃない!!」って高齢者は医療を受ける権利もないのか??
と何とも言いようがない気分になっています。