デリカシーとは、「感情、心配りなどの繊細さ」という意味である。それは人に対する「思いやり」が根底にあって、働かすことができる心だと思う。

きめ細やかな心配りとでも言って良いものだろう。

言葉遣いが大事なことは、このブログで何度も指摘しているが、言葉遣いが適切であっても、デリカシーがないと、せっかくの正しい言葉が、おかしな響きになって聞こえてしまうことがある。言葉に心を込めるためには、デリカシーが必要なのである。

数年前、ある医療機関で「患者をニックネームや、ちゃん付けで呼んでいる」という問題が表面化し、その対策として、必ず苗字に様をつけて呼ぶようにするという対策が取られた。

僕が、その医療機関に入院されている方に、たまたま用事があって病棟を訪ねたときのことである。廊下に置いてあった医療器具が乗せられた車輪付きの台を、入院されている高齢女性(おそらく認知症の方)が、その台のものを触ろうとして、近くにいた看護師がこう叫んだ場面に出くわした。

「○○様、ダメ、やめなさい!!」

仏作って魂入れず、という諺が思い浮かぶ場面であるが、患者さんの呼び方だけに焦点を絞って、お客様に対するサービスを行う上での言葉遣いという本質を考えない言葉の指導が、そのようなおかしな言葉の使い方を生み出してしまうのだろうと思った。

看護のプロとして適切な言葉を使うという意識に欠けると、このようなおかしな言葉が飛び交う結果になるのだろう。

看護の看とは、手を眉上にかざして見るという意味である。それは「いつくしむ心」を表す言葉である。患者と呼ばれる人々の心を串刺しにするのが看護ではなく、手を眉上にかざして、人間を見て、いつくしみ、護るのが看護である。

その基本姿勢を持っているならば、あえて患者さんの呼称を様付けで呼びましょうという運動をしないでも、適切な態度や言葉は何かと真剣に考えることができると思うのだが、実際の看護の場では、「手を眉上にかざして見る」という言葉が、既に死語になっているのだろうか。

言葉は心になるから、できるだけ適切で、その場にふさわしい使い方に務めるべきだと思う。

言葉だけを変えても、行動が変わらないと意味がないという主張は、その通りであるが、言葉を適切にすることによって、不適切な行動になることをある程度まで抑止する効果があると思う。そしてそこに、デリカシーというエッセンスを加えることで、我々の基本姿勢が守られていくのではないかと考えている。

例えば、どんなに言葉が丁寧であっても、食堂で食事摂取介助を行っている介護職員が、先に食事を終えて居室に戻ろうとする利用者さんに、「おトイレ寄って行ってください。」と声をかけるとしたら、それがどんな丁寧な言葉であっても、デリカシーに欠けると言わざるを得ない。

それはどんなに丁寧な言葉であっても、食事をしている最中の人々に配慮のない言葉でしかなくなる。

廊下を歩いている女性利用者に、職員が大きな声で元気よく、「おトイレでおしっこ出ましたか?」と尋ねるというのもデリカシーに欠けるといえよう。排泄というのは人前で大きな声でアナウンスするような行為ではなく、少しでも羞恥心に配慮しようというデリカシーがあれば、耳元でそっと他の利用者や職員に聞こえないトーンで同じ言葉をかけるだろう。それだけで変わるものがあると思う。

私たちの仕事というものは、高度なことをする前に、そうした日常的なごく当たり前の配慮を積み重ねた時に、人の笑顔や幸福に結びついていくのではないだろうか。逆に言えば、ある特定場面を取り上げれば、素晴らしいケアをしていたり、先進的な方法をとっていたとしても、日常的なそうした配慮にかけていれば、利用者の不満や不快感は、その場所に常に存在していくことになるのではないだろうか。

デリカシーという感性を働かせることができる職員が何人存在するかで、その場所の居心地の良さが決まってくるのではないだろうか。

OJTでデリカシーをの大切さを教え、その感性を働かせてケアする具体的方法を教える人がいて、それを受け継いでいく職員がいる職場こそが、私たち自身が利用したいと思える介護サービスとなっていくのではないだろうか。

そう言う意味でも、心配りのできる自分であるように努めなければならないと思っている。その時に初めて職員に言える言葉ができる。

「どうぞ、デリカシーのある、感じの良い職員でいてください」と・・・。

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