厚生労働省が公開している資料の中に、「死亡別場所、死亡者数の年次推移と将来統計」というグラフがある。これは短い期間に数値を変えた似たようなグラフが2通り示されているが、新・旧のグラフを見ると面白いことに気がつく。
最初に示されたグラフ資料は以下のとおりである。

ここでは死者数が160万人を超える時期でも、医療機関で亡くなる方の数は現在と変わらず、自宅死は現在の1.5倍、介護施設死は2倍とされている。そしてそれより増えるのは「その他」である。ここで47万が死を迎えるという想定をしている。
では「その他」とは、何を意味しているのだろうか?
これはサービス付き高齢者向け住宅とか、特定施設、グループホームを意味している。そうなると居宅サービスに関わる介護支援専門員の看取り介護期の役割は今以上に重要になってくるのだろうが、その前にサービス付き高齢者向け住宅をたくさん増やしたとして、本当にそこで看取り介護を行うことが可能なのだろうかという疑問が生ずる。
そう考えていた時に、厚労省の新しい資料が示されたものが下の図である。

この資料と、前の資料の一番の違いは、新しい方の資料には、「看取り先の確保が困難」という文字が入っていることである。
47万人を看取る場所としての「その他」の場所はどこにいったのだろう。
これは単に、サービス付き高齢者向け住宅の建築が、国が思った以上に進んでいないことを示したものなのだろうか。それともサービス付き高齢者向け住宅を中心にした、「住まいとケアが分離した場所」で、本当に47万人の看取りが可能なのかという疑問が、この資料に新しい文言を加えた背景にあるのだろうか。
どちらにしても死亡者数が増えるのは間違いなく、病床数は現状維持というのも間違いないところである。医療機関で8割以上の方々が亡くなっている現状から言えば、病院で死ねない人が増えるのだから、それに替わる新たな看取りの場が必要とされることも間違いのないところだ。
そうであれば、在宅の看取りを今以上に可能にできる保健・医療・福祉・介護の連携も求められるであろうし、介護施設は終生施設として、住まいとケアが分かれていないからこそ可能となる看取り介護の方法論を確立して、全ての施設が、そこで最期のときを過ごしたいと希望する人々のニーズに応えなければならない。
僕が、医師や看護師対象の「ターミナルケア研修」にシンポジストなどとして招かれた時に主張することは、これからの社会では、医療機関死、施設死、在宅死のいずれが良いのかという論ずること自体がナンセンスであって、すべての場所で安心して死ねる体制を、国全体として構築し、国民がその選択肢を持てるようにしていかなければならないということである。
どこで死ぬことが自分にとってふさわしのかを考えるとき、それは単に機関や場所の選択ではなく、そこでどのような看取り介護あるいはターミナルケアが行われるのかという、個別の体制が問題なのである。
例えば特養で年間20件以上の「看取り介護」を行っている施設があるとしても、その状況をつぶさに検証したとき、その半数以上の利用者が息を止める最期の瞬間を、誰も看取っておらず、夜間巡回で息を止めていることに気がついたという実態があるとすれば、これは「看取り介護」という名目の、「施設内孤独死」があるだけの実態だろうと思う。そこで死んでいく人があるから、看取り介護を行っているということではないのである。
現在8割以上の国民が死を迎えている医療機関も、そこで看取られている人は何人いるのだろうか?
死は終わりではなく、人生というステージを完結することであり、看取り介護とは、そのクライマックスを支援するという意味がある。人生のクライマックスであり、ファイナルステージである時期を支援するということは、死の援助ではなく、対象者が最期まで尊厳ある個人として、その人らしく生きることができる支援である。いかに安心して安楽に生きることができるかを大切に考えなければならない。
そういう意味で特養の看取り介護には限界も存在するだろう。例えば痛みのコントロールが必要な場合、すべての特養に痛みのコントロールができる医師が配置されているわけではないし、地域の医師の協力が得てペインコントロールがでいきるという体制でもない場合、そうした対象者を看取ることは難しい。少なくとも当施設では、そういう方には、安心と安楽な看取り介護を提供できる体制はないため、医療機関等にお願いせねばならないのが現状である。しかしできないことを無理して行って、結果的に安楽ではない悲惨な終末期を作り出すことはあってはならないはずだ。
看取り介護対象者の様々な状況を精査し、その状態にきちんと対応できる適切な場所の選択を支援するという視点がなければ悲惨な死を作るだけの結果に終わるだろう。「できること」「できないこと」を精査した上で、なんでもできると思い込まずに、対応できる対象者に対して最大限の配慮とサービスを行って、その状況に応じたいろいろな場所で、安心して最期のときを過ごすことがでいるという社会を構築していかねばならない。
特養は看護職員が夜勤を行っていない施設が大半であり、多くの場合看護職員の対応は、「夜間オンコール」である。しかし夜、看護職員がいないから安心した看取り介護ができないという事はないはずである。そこで看取り介護の対象となる人の状態像とは、延命治療を必要とせず、看護師が対応しなければ安楽な状態を保つことができないという対象者ではないはずだからである。
在宅であっても、訪問診療や訪問看護で、医師や看護師が関わっていたとしても、大部分は家族などのインフォーマルな支援により、死の瞬間は家族が手を握って看取っているはずである。医療従事者が大部分の支援を行わねば適切ではないという偏見、死の瞬間に医師や看護師がそこにいなければ安楽と安心は得られないという偏見を超えて、新しい安心と安楽な看取り介護を作り上げていくという姿勢が、すべての保健・医療・福祉・介護関係者に求められるのではないだろうか。
自分が将来、どこでどのように死にたいかを考えながら、今より死者数が405千人増える社会の中で、すべての国民が安心して看取り介護期を過ごすことができるように知恵を絞っていかねばならない。
そして・・・安心・安楽に最期の瞬間を迎えられるかということが、財産や収入の多寡で決定づけられ、格差が生じたり、自己責任という言葉で放置されてはならないことだけは強く主張しておきたい。
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