群馬県内にある医療機関の精神科病棟で、23歳の男性職員(看護補助職員)が、69歳の男性患者の顔を殴り、意識不明の重体にして逮捕されたというニュースが先週報道された。(患者さんは、その後死亡。)

逮捕された職員は殴った理由について、「おむつの交換中に暴れたため、腹が立った。」と供述しているそうである。

この患者さんは、精神科の個室に入院していたとのことであるから、もしかしたら日頃から暴力行為があって、保護室と呼ばれる部屋で対応していたのかもしれない。

どちらにしても、精神科病棟という場所には、精神的な疾患によって自分の感情をコントロールできずに暴力を振るう患者さんも数多く入院しているのだから、患者さんの暴力行為に対して、職員が暴力をふるって制圧しようとしても、何も意味をなさないことは分かりそうなものだ。なぜこの職員は自分の感情をコントロールできなかったのだろう?

勿論、精神科病棟で様々な精神症状のある患者さんと接するストレスについて理解できないわけではない。しかしストレスが溜まって、やむを得ず殴ってしまうという理屈が許されるはずもない。治療の方法論に、暴力などありえない。

こうした事件が明るみになると、必ずそれが「氷山の一角」であると指摘する人がいて、病院でも施設でも、明るみになっていない職員の暴力行為があるのだろうという声が挙がってくる。

そしてそのような指摘が、まったく的外れではないことも理解できる。

しかし、精神科病棟で働いている職員のうち、圧倒的に大多数の職員が、そのような暴力行為とは無縁な状態で患者さんに接しているということは事実として認識していただきたい。

大多数の職員は、様々なストレスを抱えながらも、自らの感情をコントロールして、献身的な看護や介護を行っているのである。それはある意味、当然のことではあるが、こういう事件が起きることによって、十把一絡げにして、精神科病棟で働く職員なら、多かれ少なかれ暴力行為を行っていると見られることは看過できない。

事件として表に出たような許されない行為は、氷山の一角であるかもしれないが、大多数の暴力と無縁の職員がいるということも事実なのだから、医療や介護の現場で、どうしてこのような暴力や暴言が繰り返されるのかということを、様々な角度から検証して、少しでもそうした行為の芽を摘む方法を考えていくべきではないだろうか。

我々は評論家ではないのだから、「ほかでもやってるのだろう」とか、「氷山の一角だね」という感想のみで終わるのではなく、改善の手立てを考える人でなければならないのではないかと思う。

第3者的に冷めた評論をしている暇なんてないと思う。

ここで考えて欲しいことがある。それは暴力や暴言がある患者さんに、職員が怒りの感情を持つことは決して罪悪ではないということだ。それは人間として極めて正常な感情である場合も多く、わきあがる感情をコントロールして、怒りや悪感情を抱かないようにするということは不可能である。人は万能の神ではないのだから・・・。

しかし我々は、保健・医療・福祉・介護の現場で、様々な人々に関わる対人援助の専門家であるのだから、相手に対して自分が抱いた感情のままに、その感情の赴くままの行動を、ストレートにぶつけて良いわけがない。

援助すべき対象者に抱いた負の感情が、対人援助という業務に影響を与えては困るわけである。そうであるがゆえに、自分がどのような時に、利用者に対して怒りの感情を覚えるのか、悪感情を抱くのかということを、自分自身が自覚して、日頃からその傾向を知ろうと務めることが求められているのだ。それが「自己覚知」である。それによって我々は自身の感情をコントロールすることが可能になるのだ。

我々の職業にとって、この「自己覚知」は最も重要である。なぜなら人の感情は、相手を巻き込みやすいからである。我々がどのように注意しようとも、利用者の抱いている怒りや苦しみや悲しみといった感情に巻き込まれるおそれが常にあるわけである。

しかし支援業務に携わるたびに、そうした感情に巻き込まれってしまっては、仕事にならないばかりではなく、自分自身の精神を病んでしまいかねないのである。

そのために我々は自己覚知に努め、自分自身の感情の有り様を理解し、その感情をコントロールするという意識が常に求められるのである。自分自身の感情を否定するのではなく、自分自身の感情の現れ方を理解し、コントロールすることが求められているのである。

それがバイスティックの7原則のひとつである、「統制された情緒関与の原則」のひとつの意味でもある。

それは援助者が、自分の感情を自覚し、自分の感情をコントロールして援助するという意味であり、利用者の感情に引きずられて冷静な判断力を失わないという意味である。

我々の職業は人の援助に専門的に係る職業なのだから、単に優しい人であるとか、明るい人であるとかいうことはスキルにならない。人の感情に敏感になりながらも、人の感情に巻き込まれずに、その場面で最も適切に反応するスキルが求められるのである。

最も必要とされる支援を行うためにはどうしたらよいかを、常に考えるスキルが求められるのである。

果たして事件のあった医療機関では、こうした教育がされていたのだろうか。事件を起こした職員は、自己覚知という言葉や、その意味を知っていたであろうか。

こういう問題が起きると、職場における人権教育はどうなっているんだという話になりがちだが、そもそも、病気や障害を抱える人に対して、その人々を看護したり介護したりする立場のものが、その人に危害を加えないという教育をしないと、虐待は引き起こされるっていうことなのだろうか?

そんな行為が許されないっていう教育は、職場教育として行われるようなものではなく、子供の頃から繰り返し家庭や学校で行われるべきものだろう。それがされていないとしたら、この国の教育そのものに大きな病根があるということだ。

一端の大人に人権教育をあらためてしないと、人権蹂躙や虐待が行われるのが当たり前だとしたら、この国自体が腐っているということだ。

単に人権は大事だから患者さんに暴力をふるったり、暴言を吐くことはいけないといいうだけの教育で終わってしまっては、それは事業者側のアリバイ作りにしかならず、職員教育にはならない。

職場の教育とは、本来もっと高いレベルのもので、人が人を守ることが看護や介護の現場であるということを理解した上で、自分が患者さんや、利用者の方々の感情に巻き込まれない方法を教え、人の尊厳を守る方法を教えるものではないのだろうか。そしてその職業に対する誇りを持つことができる人材を育てることではないだろうか。

保健・医療・福祉・介護サービスの職業倫理は、福祉観・人権の尊重する考え方と、自立・自己実現の援助などの視座と、秘密保持など専門職として必要な価値観 が基盤になるが、それもすべてその職業に携わる人々が、その職業に対する誇りを胸に抱いていないと歪んでしまうものである。

そうした誇りを持ち続けるためにも、対人援助の場に存在する様々な感情に巻きこまれず、自身の感情をコントロールして、冷静なもうひとりの自分の存在を失わないという努力が求められるのだ。

このような悲惨な事件を引き起こさない手立ての一つとして、自己覚知に努める教育というものが効果を上げないはずがないのである。ここの視座が職員教育の中に入れられないとならないのである。

今週土曜日に熊本市で行う、「入社5年未満の新人介護職員向け研修」の講義は、全5時間の講義になっているので、自己覚知を促すレクチャーも取り入れようと考えている。

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