プロ野球の中日とロッテで、ストッパーとして活躍された牛島和彦さんが出演されていたテレビ番組で、高校野球やノンプロの投手などに、次のような質問を投げかける場面があった。

「1対0でリードして迎えた九回裏。ツーアウト満塁で、ボールカウントが3ボール2ストライクになったとしたら、次の球種は何を選択しますか。」

それに対して、高校生やノンプロの選手は、「その日自分が一番自信を持って投げられる球を投げる」「打たれても悔いがないように、自信のある真っ直ぐで真っ向勝負する」「自分の決め球に賭ける」など様々な意見が出された。

ところで同じ質問をアナンサーから振られた牛島氏は、それらの意見とは全く異なる考え方を示された。

牛島氏曰く、「どういう状況でツーアウト満塁になったのか、そしてその状況で、どういうふうにして3ボール2ストライクというカウントになったのかによって、選択する球種もコースも全然違ってくるので、その質問には答えられません」

なるほど、これこそプロフェッショナルだと思った。今そこにある状況には、かならず過程があるのだ。その過程によって状況が生まれているのであるから、そこで求められる対応は、過程を無視して考えられないということだ。

この考え方は、我々のように対人援助に関わるものこそ持たねばならない考え方ではないのだろうか。

例えば僕は、「認知症の理解とケア」に関する講演を行うことがあるが、そこではアルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症などの症状の特徴や、そうした症状がある人たちへの対応方法を具体的に示すとともに、過去に僕が経験した認知症の方々との関わり方の中で、症状の改善や精神の安定が見られたケースなどを紹介して、その分析を行うことが多い。

そして認知症の方々に求められている我々の対応方法とはどのようなものかを、僕なりに理解したものを解説している。

そうした講演後の質疑応答では、今現在対応に苦慮されている方から、具体的なケースの相談を受けることがある。それは例えば認知症で重度の記憶障害と見当識障害があるAさんという人が施設で暮らしているとして、その人が頻回に帰宅願望があるとする。この人にどのような対応をすべきなのかというような質問である。

しかしそれに対して僕が示すことができるのは、一般論としての解決策の提言のみである。それは問題解決の糸口になるかもしれないけれど、個別のケースによっては通用しないかもしれない方法である。

なぜなら認知症の方々の個々のケースの対応は、その方々に向かい合って、その方々の置かれた状況た、感情の有り様を理解して、初めてわずかな光が見つかり、そこから解決策を手繰り寄せていくという地道な作業でしか見つからないからだ。

同じように重度の記憶障害と見当識障害があって帰宅願望のあるAさんと、Bさんという別の人では、帰宅願望に結びつく理由や状況が全く異なり、場合によっては、それは我々の想定を超えた状況であるかもしれないのである。そうであれば、そこでは真に個別の事情というものを理解しようとする態度からしか解決策は見いだせないということになる。

平井堅の「Life is」がBGMとして使われているDVDを講演で使うことがあるが、その理由は、歌詞に我々が持つべき理念につながる内容があって、心に響く映像になっているからである。

その歌詞とは、「答えなどどこにもない、誰も教えてくれない。でも君を思うと、この胸は何かを叫んでる。それだけは真実。」という内容だ。

認知症の人々が、何を求め、どうして欲しいかを見出すためには、その人自身を真剣に見つめて、ひとりの人間としての思いに我々の心を寄せて、自分がその立場であったらどうしたいのかを真剣に考え、その人の心の叫びを我々自身の心で感じて、それをサービスとして具現化する意外ないのだと思う。

答えは壇上の講師が持っているのではなく、介護サービスの場で利用者に真剣に向かい合う人が、利用者から教えられる中でしか見つからないのだと思う。

だからもっと真剣に、利用者の本当の姿を見つめる必要があるのだと思う。「もっと私を見て」という声無き声を聞かなければ、答えは見つからないのだと思う。

私たち自身の胸が何かを叫ぶようになるまで、真剣に利用者を見つめなければならないのだと思う。

だから・・・どうぞ目をそらさずに、全ての人々の心の声を聴く人になってください。



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