真珠湾攻撃〜日本の降伏を伝えた玉音放送があった日までを、「太平洋戦争」の期間と考えるとしたら、それは日本時間で1941年(昭和16年)12月8日〜1945年(昭和20年)8月15日までということになる。

当施設で暮らしている方々の生年月日をみると、大正生まれの方と、昭和一桁生まれの方が多い。

すると多くの利用者が、物心ついた時期以降に太平洋戦争を経験していると思われる。まだ記憶の片隅にしか残らない幼児だった人もいることはいるが、多くの方は、今の学制で言えば、小学校高学年から高校生くらいまでの多感な時期や、青春時代真っ只中で戦争を体験している。

それらの方々は、日頃饒舌な方であっても、ほとんどその時期の戦争体験を語ることはない。その時期の話になると、急に口が重たくなる人もいる。それだけ重苦しい体験であったのではないだろうか?

僕の住む登別市は、温泉の街であると同時に、大きな企業のある隣の市、室蘭市のベッドタウンという性格も併せ持っている。

終戦のちょうど1月前、1945年7月14日〜15日にかけて、米軍による北海道空襲が行われた。その時、室蘭市は軍需工場を持つ「重要な攻撃目標」とされていた。特に日鋼室蘭の第六工場は、射高2万mの最新鋭の高射砲を生産できる国内唯一の工場であった。そしてそれは制空権を失っていた当時の日本にとって、B29に対して唯一威力を発揮してすることができる武器であった事から、米軍にとっては重要な攻撃目標とされた。

そのため室蘭市は、14日に艦上機により空襲され、翌15日には艦砲射撃による攻撃を受け、北海道内の空襲では死者数、焼失家屋数共に最大の被害を出す事となった。その数は室蘭市街地において被災世帯1,941世帯、被災人員8,227人、死者436人、重軽傷者49人とされているが、この数字に軍人の数は入っておらず、実際にはもっと多くの犠牲者が出たと言われている。

子供の頃に、そうした体験をしている人は、この地域にはかなりいるはずなのだ。そしてその記憶を生々しく持っている人も多いはずである。それでもその体験談はあまり語られていないような気がする。

僕が特養に就職した当時、たまたまその空襲で大やけどを負い、その後遺症を抱えながら生きてきた方が入所してきたことがある。その方のことは講演等では詳しく紹介しているが、こういう場所で文字という形で記録してしまうことが良いことかどうかわからないので、詳しくは書かない。

ただその方は、「生きていて何にもいいことがなかった」、「あの時、死ねばよかった」という言葉を口癖にしていた。

まだ若かった僕は、高齢者福祉サービスとは何かということもよくわかっていなかったし、自身の仕事に対する明確なビジョンも持っていなかったが、その方がずっとそういう思いを抱いて生きてきた数十年間の辛さに思いを馳せたとき、せめて僕が関わるその人の最晩年期が、少しでもその方にとって意味のあるものにしたいと思った。

生きていてよかったと思えるようにしたいと思った。

そうできなくとも、少しでもその方が笑っていられる時間を作りたいと思った。

その時に出会ったのが、マザーテレサの、「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう。」という言葉である。

この言葉が、心の琴線に触れず、そんなことはあり得ないと否定する人もいると思う。

しかし僕は、そのことを信じて、あのとき大やけどを負った体で数十年の人生を生き続けた人に関わったし、今、高齢者介護という場で、全ての人々の人生の幸福度を左右するかもしれないという思いで、日々関わっている。

どんなに幸せな人生を送ってきた人であっても、最期の1%が不幸だとしたら、その人生は不幸なものに変わってしまうという恐れと、そこに関わる責任を日々感じている。

だから人生の先輩である高齢者に対し、乱暴な言葉・荒い言葉・不適切な言葉で接する人をみると怒りを覚えるし、その姿はとても醜いと思う。(参照:介護の闇をなくさなければ・・・。)

海南市の南風園で隠し撮りされたビデオに映っている介護職員の姿はとても醜いと思う。それらの職員が何の反省もせず、何の責任もとらず、いまだにそこで働き続けていることも信じられない。

僕たちの職業は、本来なら、人として普通に利用者に接し、常識あるケアを心がけるだけで、人が幸せになれることのお手伝いができる仕事だ。プロとして当たり前のことをするだけで、誰かの心に咲く赤い花になれる仕事だ。そのことに誇りを持つことができる仕事だ。

そうであるにも関わらず、なぜそのような素晴らしい職業に闇を作ってしまう人がいるのか。あの映像に映っている施設の介護職員は、あの姿を自分の家族に見せることができるのか?

もう一度、人の心を取り戻してほしい。そうしないとあの言葉や態度は、彼女たちの人格そのものとなり、それはやがて彼女たちの運命となって行くのだ。

文中で紹介した、大火傷を負った方は、数年前に亡くなられている。身寄りのない方であったから、最期は僕が手を握って看取った。

最期の言葉は、「アンガトサン。」だった。

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