介護施設の中には様々な専門職が配置されている。しかし資格があるだけで専門家だと勘違いされては困る。

資格がなければできないことはあるけれど、それは単に業務独占の専門職としての資格を持っているに過ぎず、専門職が本当の意味で専門家になるためには、きちんとした理念を持ち、その理念を実現する方法論を持たねばならない。

だから僕は、「専門家になれ、専門バカはいらない。」と言う。

「制限は馬鹿にでもできるが、できることを最大限実現できる手助けができるからこそ専門家である。」と言う。

「食」について言えば、管理栄養士や栄養士とは、栄養計算できる人、栄養状態を正しく把握して、健康を保つ食事を提供する人という以前に、人にとって最大の楽しみである「食べる喜び」を守る人であると思う。「食べる喜び」を持ち続けることが出来るように、誰よりも専門知識を持つ人が、管理栄養士ではないかと思う。

特養に住む人々の平均年齢は85歳を超えている。そうなると摂食障害が最大の生活課題であるという方も多い。嚥下機能低下による摂食障害では、しばしば誤嚥事故が起こる。時としてそのことは命の危険性に直結しかねない問題である。

だからといって、口から物を食べるという行為を、安易に奪ってしまうことがあってはならず、管理栄養士は、食材を工夫しながら、看護職員と十分なコミュニケーションをとって、利用者一人一人の口腔機能をアセスメントし、食べることができる支援、美味しく物を摂取できる支援を諦めない人でなければならない。

そういう意識を常に持っていることを前提にした上で、「これ以上口腔摂取は難しいのではないか。」という判断が生まれるのでなければ嘘である。これは看護職員にも同じことが言えるであろう。

この時期になると、年末から年始にかけての食事をどうするか、ということに頭を悩ませる管理栄養士も多いだろう。特に時期的には、「餅」を提供する時期である。そして餅は、嚥下機能定価などの摂食障害がない人でも、喉に詰まって窒息死する危険性のある、最も危険な食材であると考えられている。

餅は高齢者にとっては命に関わる危険食材であるとして、一切食卓に登らせない介護施設も存在する。
(参照:餅つきってなにのためにするの?

そういう施設での管理栄養士は、餅をどのように提供しようかと頭を悩ませる必要はなくなる。考えなくてよくなる。考えないということは工夫もしなくて良いということだ。可哀想に・・・。専門家としての技量を発揮する機会を奪われ、そのことを悲しいと思わないところから専門家の退廃は始まるのである。

参照記事にも書いたように、僕の施設では、「お餅を食べることができる方法」を考えることから始まる。しかし残念なことに、それでもなお「お餅を食べることが不可能だ。」として、提供できない人もいる。

そう言う人の場合、周りでほかの人がお汁粉やお雑煮を美味しそうに食べている時に、お餅の入っていない汁だけを飲んでもらうということになってしまったりする。

このことを「仕方がない」と諦める管理栄養士であってはならないと思う。

昨日、当施設で毎月行われている「給食会議」の中で、栄養士から下の画像のお汁粉が、参加者全員に配られ、試食をお願いされた。

新素材おしるこ

汁だけのお汁粉では、あまりにも可哀想だということで、お餅に変わる食材で、お汁粉としての味わいも損なわない方法はないかと試行錯誤した結果、これはどうかという試食品である。

お餅のようにみえるが、これは「おかゆ」を一旦ミキサーにかけて、特殊な粉で柔らかく固めたもの。2つ入っているが、それぞれ粉の分量を変え、ほぐれやすさを工夫したものである。いわば、お粥を原料にして、お餅に似せた「ソフト食」である。

食べてみると、舌の上でとろけるように溶けていくが、食感も味わえる。「柔らかいとろけるお餅ですよ」と言われたら信じてしまうだろう。

今年は、このソフトお餅を、本物のお餅を食べることができない人に提供することにした。経管栄養以外の方は、全員これを食べることができるだろう。

この食材が、利用者が求めるものとして完璧なものではないかもしれないし、単なる始まりでしかないのかもしれないが、お餅を一切提供しないという現状に甘んじている施設の管理栄養士と比べると、当施設の管理栄養士&栄養士は、「食の専門家」として存在し続ける努力をしている人として評価して良いだろう。

シリーズ第3弾


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