社会人入学生を除いて、介護福祉養成校に入ってくる学生は、高校を卒業したばかりで、まだまだ知識も足りないし、見識にも欠けている場合が多い。物事に対する考え方も幼稚さが抜けない部分がある。
それらの学生も2年間の授業を終える頃には、それぞれに成長した姿を見て取ることができる。勿論、能力は様々だから、2年間で獲得する能力には個人差があるし、すべての学生が介護福祉士として恥ずかしくない器量を備えたとは言い難い現状もあるが、入学した直後と比べると確実に成長の跡が見られる。それは人間としての成長という意味も含めてのことである。
特に目に見えて成長を感じるのは、1年生、2年生のぞれぞれの実習を終えた直後である。
学生たちは、初めて経験する介護サービスの実践の場で、利用者に接し、職員の方々から指導を受けることで、学校の教室の中では感じ取れない何かを掴んでくるのだろう。
しかし実習の場は、彼ら学生が期待したことを学び取ってくる場であるだけではなく、彼らが思ってもみなかった負の学びの場であるという一面もある。彼らはそれまで様々な生活歴の中から、それぞれの価値観を持って生きてはいるが、その価値観が根底から覆るような経験をすることもある。
彼らはある意味、実習を経るまで介護に対して、innocent(イノセント)なのである。純真無垢に介護というものが人に役に立つために献身的に行われるものだと信じている場合が多いのだ。
だが実際の介護サービスの場では、「理想と現実は違う」という部分が様々に存在する。彼らは実習中にまざまざとそのことに直面せざるを得ない。しかしそのことはやむを得ないことなのか?理想と現実をイコールにしようとする努力は払われているのか。
少なくとも学生が実習中に感じてくる「介護施設や介護サービスの中に存在するおかしさ」とは、間違いなく正しい感覚である。それを「理想と現実は違う」という理屈で無視して良いのだろうか。言葉遣い一つにしても、利用者を「ちゃん付け」で呼んだり、ニックネームで呼んだり、年上の顧客に対して「友達言葉」「タメ口」で話しかけたり、長い間現場職員が問題意識を持たず変えようとしなかった、「世間の非常識」ではないか。そのことの「おかしさ」「違和感」に気づいてこそ、変えなければならないという動機付けが生まれるし、変えるべき方向性も見えてくるのである。
学生が正常に感じている正しい感覚を麻痺させ、理想とは程遠い現実を学生に押し付けるだけのの実習なら、本来人間として持つべき正しい感覚を麻痺させるために行う実習であるとすれば、そんなものになんの価値があるのか。学生の気づきに、もっと謙虚に対応しようとする我々の姿勢が必要なのではないだろうか。
介護福祉士養成校に入学してくる学生の動機のトップは、いつも「人の役に立つ仕事だから介護福祉士になりたい」というものだ。そういう部分に対してinnocent(イノセント)な学生は、最初の実習現場で、ぞんざいな介護職員の言葉遣いや横柄な態度に驚き、何かが違うのではないかという疑問を持ち帰る。しかし同時にそういう態度の言い訳も持ち帰ってくる。その言い訳とは、介護サービスを提供し、学生を指導する人々の理屈である。
それは果たして仕方のないことなのだろうか。僕はいつも疑問に思っている。
しかし学生時代に、今の介護サービスの現状は何かが違うという問題意識を持って、介護の現状を良い方向に変えたいという志を持って巣立っていく学生の多くが、就業して半年もすれば、彼らが学生時代におかしいと感じて、心のどこかで批判していた対応と方法論をそのまま受け入れて、かつて自分たちが「おかしい」と感じていた対応そのものを行う人になってしまうことが多い。
彼らは介護福祉士としてサービスに従事する中で、なにか大事なものを失っていくことを成長であると間違って捉えているのではないか。世間の波に揉まれて、妥協し、感覚を麻痺させていくことが成長であると勘違いしているのではないのか。
だから僕は学生にいつも、介護の現状が決して全て良いと言えないのであれば、それを変えない責任は、毎年たくさんの人が資格を得て、介護サービスに従事していく介護福祉士が、その責任の多くを負うべきであると言っている。
介護福祉士が悪いと言っている。
数年前、栃木県宇都宮市の老健施設では、職員がベッドの下で四つんばいになっている認知症高齢者を携帯電話で撮影し同僚たちに見せて笑っていた。別の介護職員は、認知症の女性入所者の顔にペンでひげを書き、携帯電話で撮影したというのである。 さらに90代前後の女性入所者を車いすからベッドに移す際、高く持ち上げて乱暴に落とした職員の存在も明らかになった。
運営していた同法人が、介護職員に聞き取り調査をしたところ「親しみを込めてやった。かわいかったから」と話したという。 そして法人理事長は「悪意がなかったため、(虐待に)当たらない」との見解を示し、宇都宮市は市の見解として、職員の行為は虐待には当たらないものの不適切で、職員教育も不十分だったなどとして、同施設に介護保険法に基づく改善勧告を行うにとどめた。
法人も市も常識を失っていないか!!しかし何よりその施設では、不適切な行為を行っていた職員のほかに、それを見て知っていた数多くの職員がいるはずだ。それらの人々は、そうした行為が行われている実態を、理想と現実は違うということだけで受け入れていたと言うことなのか?感覚を麻痺させてしまって、人間として許されない行為が何かということまでわからなくなってしまっていたのではないのか。
我々は人間の命と暮らしに深く関わるのだから、人の暮らしを守るために、人として何をしなければならず、何をしてはいけないのかという部分に関しては、どんなに年をとっても、経験を重ねても、innocentであるべきではないのか。たとえそれが蒼臭いと言われようとも、純真無垢を恥と思わないところからしか見えないものがあるのではないのか。
innocent(イノセント)だけで仕事はできないというのはその通りであろう、しかし残しておくべきinnocentまでを失わせることが、我々の求めるものであるとしたら、それは決して介護サービスという職業が誇りをもつことができるものとは言えないのではないのか。
純真無垢さを失って行くことが、専門職としての成長だとしたら、それは同時に虚しさを伴う歩みとなるだろう。
誇りを持つことができる素晴らしい職業が介護サービスであるために、このことに疑問を持ちながら、自分の中のinnocentを忘れないでいたいと思う。
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介護・福祉情報掲示板(表板)
初心に戻ったような心境になり、日々の業務の慣れにより、常識が非常識になってしまうことの怖さを改めて思い知りました。最近、自分の至らさにより家族さんに迷惑をかけて、先日謝罪に行ったばかりです。
それはどこか緊張感が抜けていて、日々の怠慢からくるものでした。これをきっかけに常に気をつけていきたいと思っています。