保健・医療・福祉サービスに携わる人々は、専門知識と専門技術を持った専門家であるはずだ。

医師や看護師は、医療や看護の専門家であるし、介護福祉士は介護の専門家でなければならない。

その他、栄養士やセラピストなど、様々な専門家がチームを組んで、ある目的を達成しようとして人に関わるのが我々の職業である。

例えば僕なら、社会福祉士や介護支援専門員やカウンセラー等の資格を持っており、相談援助の専門家と言えるであろう。しかしそれは資格を持っているから専門家ということではなく、知識や援助技術を獲得した結果として資格というものが付与されたという意味において「相談援助の専門家」といって良いものだろうという意味である。

つまり資格を持ち続けたとしても、何らかの理由で知識や技術を失った場合、「専門家」という看板は下ろさねばならないということになる。

そうであれば当然、専門家として自らのスキルを日々アップさせようとする姿勢は常に求められるし、基礎知識や基礎技術を生かす努力を重ねる責任を負っていると考えねばならない。品質保持の努力をしないと製品は劣化するように、我々の専門知識や援助技術も何もしなければ劣化してしまうからだ。

「専門家」という看板を背負っていながら、専門家ではない人より専門領域の知識がないという状態は非常に恥ずかしいことである。そう言う意味では介護保険制度の中で仕事をしているのに、サービス利用している人や、その家族より介護保険制度やサービスの知識が劣るというのは恥ずべきことである。その状態は専門家ではない素人がサービスに携わっているに過ぎない状態と言え、それなりの費用しかかけられないという理屈が成り立ってしまう。我々はそういう状態を打破して、専門家が専門家として働き続けられる環境を作り、報酬を得るためのアクションをし続けなければならない。

そう考えると、専門家とは「専門性」に胡座をかいて、他者を見下しているような暇はなく、常に様々なものから学び研鑽していく人のことを言うのだろうと思う。専門家であり続けるために、常に謙虚な姿勢を持ち続ける必要がある。利用者に対して、社会に対して。

ところで、我々相談援助職にとって、一番厄介なことは、我々が専門性を持って関わるのは、「人の暮らし」そのものであるということだ。

医師や看護師が、その専門性において、ある特定個人の病気そのものを治療したとしても、その後の生活支援をはじめとした、様々な暮らしに介入するソーシャルケースワークの領域においては、それぞれの生活の個別性に焦点を当てざるを得なくなる。

この時、間違えてしまいがちなのは、我々の専門性とは、誰か特定個人の個別の生活の専門家にさえなり得る能力を持っていると考えてしまうことだ。それは間違った考えであり、我々ソーシャルワーカーといえども、特定個人の暮らしの専門家にはなり得ないのである。

そもそも個人の生活とは、最も個別性の高い領域であり、他人の専門性が入り込む余地のないものである。Aさんという個人であれば、Aさん自身の「暮らし」の専門家とは、Aさん自身しかなり得ないのである。

「Aさん、あなたの暮らしぶりは間違っているよ。」という指摘は、専門性に立脚して行っているというより、ソーシャルワーカーの価値観によって指摘しているに過ぎないという一面を持つものだ。だから我々はそういう立ち位置でしか仕事ができない限りにおいて、常に間違ってしまうのだという自覚が必要だ。

Aさんの暮らしとは、Aさんがこの世に生まれ、両親をはじめとした様々な人や環境の影響を受けながら、Aさんとしてのアイデンティティーを確立する中で作り上げられたものであり、善し悪しや、正しいとか間違っているとかという評価の介入の余地さえない部分が多くを占めているのである。

その中で我々が、Aさんという特定個人の生活に介入するという意味は、Aさん本来の潜在能力を含めたすべての能力を引き出して、自分自身の生き方を自分で決めていく力を養い、その暮らしをより望ましいレベルまで向上させるといったことを目的とするエンパワメント介入という意味を持つものであろう。

その時、我々に求められているのは、我々が持つ価値観は、他人のそれとは異なるということであり、我々が常に正しいとは限らないということであり、援助過程で援助を受ける人々からも学び取らねばならないことが多々あるということだ。

そういう真摯さもって、自己覚知に努め、自らの現状のスキルに満足しないで向上心を持ち続けることによって、初めて我々は誰かの個別の暮らしに介入し、傍らにいることが許される存在となり得るのであろう。

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