昨日の記事では、福祉援助・介護サービスの現場で求められる説明責任について考えてみたが、今日は医療の現場での説明責任はどうだろうということを考えてみたい。本当の意味での説明責任は果たされているだろうか?

僕の母は、父の一周忌の11日前にくも膜下出血で倒れた。ここ登別市から高速道路を使って2時間弱の岩見沢市立病院に駆けつけたとき、母は目を開けることはできなかったが、僕が来たということはわかり、「登別から来たのかい。」と声も出すことができた。

その日、緊急手術を行うことになったが、執刀医や麻酔医からそれぞれ手術の方法や、危険性などについても十分に説明を受けた。その時は「9割がた元の生活に戻れます。」と説明されたが、結果から言えば、母は手術中にも出血があり手術時間も予定より5時間近く長くなり、手術自体は成功したとのことだったが、意識が戻る前に脳梗塞を起こして、意思疎通のできない寝たきり状態になった。

つまり術前の説明で「残り1割程度の悪い可能性」という方に入ってしまったわけである。

それは不運としか言い様がないし、医師説明がどうのこうのという問題ではない。

ただ患者や家族にしてみれば、手術前の説明同意とは、同意しなければ手術をしてもらえないわけであり、そうなれば命を救えないという意味にもなり、同意する以外の選択がないことを、手術が必ず成功するとは限らないことも含めて説明を受けて同意をするわけである。執刀医と麻酔医の説明も、両者同じであったが、手術が行われても悪くなる可能性を主に説明されたという感がないわけではない。この部分についていえば、命を預ける患者や家族は、受身の姿勢しか取れないだろう。

ところでその際の説明で、鼻腔栄養にすることの説明を受けたかどうかの記憶はあいまいだが、その場合の鼻腔栄養は、あくまで意識が戻って食事が取れるようになるまでの一時的な栄養補給法であると理解していた。しかし現状から言えば、母はその後食事を口腔摂取できる状態に回復せず、それ以来ずっと経管栄養によって命をつないでいる状態だ。この状態は母自身や家族が決して望んでいる状態とは言えないだろう。しかし現状で言えば、鼻腔栄養を外すという選択肢は無いに等しい。これは僕にとって想定外の状況である。

僕の例と状況は全く違うが、高齢者が口から食事の摂取が困難になったとき、胃瘻をつくるという選択の際の説明責任はどのように果たされているだろうか?医療機関の関係者なら当然説明責任は果たされていると答えるだろう。説明同意のない胃瘻形成術などありえないと言うだろう。

だが説明しているということと、説明責任を果たしていることとは少し違うように思う。

例えば「胃瘻を作らないと死んじゃいますよ。」「胃瘻をつくらず、経管栄養にしないで放置することは餓死させることと同じです。」と言われれば、これは事実上胃瘻や鼻腔などの経管栄養にしないという選択肢のない一方的な意見の押しつけという意味にならないだろうか?

一方では、「PEGの神話」や「経管栄養を行わない選択=餓死ではないという理由」で紹介したように、胃瘻等の経管栄養は必ずしも患者自身の為にならないし、経管栄養を行わず、経口摂取ができなくなったら、必要最低限の水分を摂取するだけで死を迎えることは「自然死」であり、苦痛もないという考え方もある。

本来の説明責任を果たすという意味を考えると、自身の価値観はともかく、経管栄養が絶対に必要だという意見ではない医療の専門家もいて、最終的にはどちらを選んでも良いという説明を行わねば責任ある説明にはならないのではないだろうか。

患者自身や家族が聞きたいのは、医師の個人的な価値観ではなく、様々な選択肢情報ではないだろうか。選択肢の示せない説明とは、強要とほとんど同じレベルではないだろうか。

支離滅裂な記事になったが、なんとなく日頃考えていることを整理しないまま、思いつくままに書いてみた。今日の記事はそんな記事である。

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