先週金曜日にアップした「35年ぶりの生誕地NAYORO」でお知らせしたとおり、僕は今、名寄市に向かう列車の中で、この記事を書いている。生誕地に向かっているという実感を感じて、なんだかワクワクしている。

今日の午前中までは、2日間に渡って「デイサービス職員スキルアップ研修」の講師を務めてきたが、そちらの受講者の方々は、どのような感想をもたれたろうか。

今回も色々な方々との出会いがあった。そして色々な方々から様々なお話をお聞きし、自分自身の見聞も広げられた。人との出会いがやっぱり一番の財産だ。

そんな中で、ある人からこんなケースの質問を受けた。

自分が担当している利用者が、認知症の進行など様々な理由があって施設入所に至った。その後、利用者のご家族と会う機会はなかったが、利用宅の近くを通りかかった際に、その利用者の主介護者であった家族(義娘)に偶然出会ったそうである。そして「○○さんの施設での様子はいかがですか。」と聞いたところ、その返事は「入所まもなくて、まだ帰宅願望があり、私たちが面会したら帰りたくなる気持ちが強まるので、しばらく面会しないでと言われているので、よくわからないの。」というものだったそうである。

そう返事した義娘さんは、そのことに特に不満は持っていないようだったとのことであるが、「これって普通ですかねえ?」と質問された。

確かに入所してまもない時期に、環境にも慣れず、職員との信頼関係の形成も十分ではないことによって帰宅願望が強くなることはままあることだ。特に入所するという意思を自ら持っていなくて、どこに連れてこられたか理解できない認知症の方ならなおさらである。特に家族が帰ったあと、自分ひとりそこに残されることで、行動・心理症状につながることがあることも考えられるだろう。

だからといって、可能性が高いということだけで、家族の面会を控えてもらうという方法論があり得るのだろうか。それはケアサービスなのだろうか。

僕は何かそのことに対しては違和感を覚える。少なくとも僕は今まで、家族に対して面会を促した経験はあるが、面会を制限した経験はない。入所間もない人ならなおさらだ。いきなり家族のもとから離されて、知らない場所で、周りを知らない人に囲まれ暮らさねばならなくなったのだから、少しでも知っている家族がそこにいてくれる時間は大事ではないだろうか。

勿論、そのことで帰宅願望が強まったり、徘徊につながったりする方もいるだろうけど、その時にそれを「家族画面会に来た」ということのせいにしないで、「家族が面会に来た後の我々の利用者への関わり方に足りないものがある」って考えて、我々自身がもっと利用者にとって信頼される存在になるように頑張る必要があるんじゃないだろうか。

利用者が会いたがっている誰かを遠ざけて問題を生じさせないということが、本当にケアサービスと言えるんだろうか。そのことを真剣に考えないと、自分たちの楽な方向だけを向いたケアになってしまって、利用者にとっての暮らしが失われてしまいかねないと思う。寂しい、寂しいという利用者の心の声を聞いたならば、我々が寂しくないように寄り添うと同時に、利用者の暮らしに存在して当たり前であった家族の存在を消すようなケアがあってはならないと思う。

北海道のグループホームとして、一番最初の指定取消処分を受けた札幌白石区のグループホームでは、入所した利用者の家族に対して、「利用者が里心がつく」という理由で、許可を出すまで面会ができないというルールを作っていたそうである。(参照:家族の面会を断る施設)そこでは入所後はじめて利用者に家族が面会したのは、そのグループホームではなく、やせ細って入院した病院の中であったというひどい話もある。

家族が来るから帰宅願望が強まるのではなく、自分の「暮らしの場所」として感じられないから、「帰りたい」と見知った人が来ると訴えるのである。家族に面会を遠慮してもらって、家族の顔も、以前の暮らしも忘れさせて、帰りたいという訴えさえもできなくすることがケアであるとすれば、これは恐ろしいことだ。

入所施設を、寂しくさせない新しい居場所にするためのケアは、家族も安心して面会できるケアでなければならないと思う。だから僕は面会制限をすることをよしとはしない。

「人を語らずして介護を語るな2〜傍らにいることが許される者」のネットからの購入は
楽天ブックスはこちら
アマゾンはこちら
↑それぞれクリックして購入サイトに飛んでください。

介護・福祉情報掲示板(表板)