最近ダイエットに挑戦していたり、加えて疲れがたまって食欲がなかったりしていることがあって、食の細い時に心配した家族から、僕の父の死に際のことを思い出して、ご飯をもっと食べるように叱られることがある。

確かに僕の父は、亡くなる数年前から食が細り、最後は食事を摂ることが辛いのではと感じる時期を経て倒れたという事実がある。しかしそれは80歳という高齢期である。

しかも僕は、父の死に際の様子については、まったく悲惨さを感じていないし、父のように死んでいけたら、それはそれで良いだろうと思っている。何より子供や妻に先立たれることがないことを一番強く願っている。
(僕の両親は、僕の上の姉に当たる女の子を、生後すぐに失っているので、いわゆる逆縁という哀しい経験している。そのような経験だけはしたくない。両親もその時は辛かったろうな。)

父は若き頃、戦時中の海軍工廠の養成所から横須賀海軍工廠に入り、地質の分析官として勤務していた。この科学者の血は、僕や弟に受け継がれず、僕の二男に受け継がれたようだ。

終戦後に三菱金属に入社し、同社の社員として僕の生まれ故郷である北海道の下川鉱山に赴任した。地質の分析という専門分野が、鉱山(銅山)開発に必要な技術だったんだろう。その後、東京の大手企業から誘いがあったのに頑として転職を拒み、下川鉱山が閉山するまでそこで勤務を続けた。

下川鉱山の閉山後、三菱金属の関連会社である四国の原子力関連研究所の仕事に携わった後(確か愛媛県であったと記憶している)、北海道に帰ってきて、千歳市の三菱マテリアルの立ち上げを行い、そこでの管理業務を最後に定年を迎えた。その時も同社から引きとめられたにも関わらず、60歳を超えたら引退して後進に道を譲るという考え方を頑として曲げず身を引いた。どうやら現役として働くのは60歳までで、それ以後は自由に生きたいとずっと考えていたらしい。

僕が物心ついたころ、父は三菱金属労組の専従職員として労働組合の書記長を勤めていた。連合の前身である総評の力が強い頃であった。そして僕が小中学生時代は、組合業務の傍ら下川町の教育委員会の委員も勤めていた。僕の生まれた下川鉱山は、三菱金属という企業の城下町で、商店の人以外は、全て会社の社員と、その家族が住んでいる街だったから、僕の父の仕事はほかの同級生の父親の仕事とは随分ちがっていると子供心に思っていた。

また父は信念の人で、職場や家庭でもずいぶん頑固だったようである。大手企業から誘いがあった時に、母は子供(僕と弟)の将来を考えると、都会で暮らしたほうが良いと思って、ずいぶんと父を説得したそうであるが、頑として首を縦に振らなかったそうだ。しかし僕ら兄弟には、そのようなそぶりは一切見せず、家庭の中では僕たち二人の兄弟は、母は怖かったが、父は常に優しかった。小さな頃、母に叱られると必ず父親の背中に隠れたものだ。母はいつも損な役割を家庭内では持たされていた訳である。

そんな父は、母には頑固で亭主関白の夫であったようである。僕と弟が子供の頃、月1回必ず名寄市まで遊びに連れて行ってもらっていたが、その際には母親が自分の買い物をすることさえ許さず、子供の為だけに時間を使うことを強いたそうだ。

オシャレな人でもあった。スーツは父にとって毎日の仕事着であったはずだが、それは常にオーダーメード。いわゆる「ぶら下がり」のスーツは買ったことがなかった。そういう面でも母は経済的にも若い頃から苦労したのではないだろうか。

その母も死ぬまで父を愛していたところをみると、やはり母にとっても良い夫だったんだろう。晩年は母に頼りきりの面もあった。

前述したように、僕の上には生まれてすぐ亡くなった姉がいたが、その後両親は女の子に恵まれなかったためか、二人の息子の嫁を大事にしてくれた。特に父は、自分の息子より、嫁の方が可愛かったようである。

その父が体調を崩したのは、70歳の後半に差し掛かった頃である。親戚の結婚式会場の親族控え室で、お祝いの水引に名前を書くときに、自分の名前の漢字が書けないことで変調に気がついた。脳梗塞を発症していた。その後、数ケ月の入院を経て、自宅で療養生活に入ったが、幸い実家には、僕の弟夫婦が一緒に暮らしてくれて、特別不自由もなく生活ができていた。勿論、軽い梗塞の後遺症はあって、長歩きはできなかったし、ふらついて危ないことはあったが、自分の足でトイレにもいけていた。

しかしこの頃から食は細くなり、晩酌のウイスキーの量もかなり減っていた。若い頃ウイスキーのロックばかり飲んでいたので、僕はウイスキーとは水で割るものではないと思っていたほどの酒豪だったが、定年前あたりから父のそれは烏龍茶割りになっていた。

母によると、父は死の1年ほど前からご飯をほとんど食べなくなって、母の目を盗んで、朝ごはんをゴミ箱の中に捨ててしまうこともあったようだ。それでも特別死に至るような身体状況であるとは思えなかったが、弟の嫁さんと母と3人で、三笠市の大型ショッピングモールで買い物をしたあと、帰ろうとし車に乗るために車いすを押してもらっていた最中に、駐車場で意識を失った。その後、救急車で市立病院に搬送されたが、車内で一旦心臓が停止し、病院で蘇生したが、意識が戻ることはなかった。

僕はその時、ちょうど札幌で研修を受けている最中で、携帯メールで連絡を受け、研修を途中で抜け、そのまま病院に直行したが、その時はもう意識はなかった。そして3日後に、母と僕たち兄弟二人と、その妻たち、孫たち、みんなに看取られて旅立っていった。享年80歳だった。

父が食べ物を受け付けなくなったのは、旅立つ準備だったんだろう。こよなく愛したウイスキーはギリギリまで飲めていたし、一瞬の発作で意識を失い、そのまま家族全員に見守られながら天に還って行った死に様は、それなりに潔い、良い死に方であったのではないかと思う。

一方母は、父の死の哀しみを背負いながらも、気丈に一人暮らしを続けていたが、父の一周忌を1週間後控えた早朝に「くも膜下出血」で倒れた。前日まで、近所の友達とパークゴルフをしているほど元気な母であったが、その日、一緒にパークゴルフをした友人が電話をかけても母が出ず、おかしいと思って家に行くと朝刊が玄関に差さったままであることで、何かあったと思い大声で家の中に呼びかけたところ、意識を失っていた母が我に返り、なんとか玄関の鍵を開けたが、ほとんど玄関先で倒れた状態であり救急搬送された。

緊急手術が必要とのことで、僕は連絡を受け、すぐに登別から駆けつけた。その時母は目を開けることはできなかったが、「マサヒロ、登別からわざわざ来たのかい。」とはっきりした口調で話すことができた。

医者からは、「手術をすれば9割の確率で、もとの生活に戻れます。」と言われた。そして手術室から出てきたときは、昏睡状態で、鼻には栄養補給のチューブが入れられていたが、数日中には意識が回復して、数ケ月後には退院できると思い込んでいた。その時は、もう一人暮らしはさせられないので、僕の家に連れてくることを妻と話していた。

しかしその数日後に、母は脳梗塞を併発して、僕の顔さえもわからない状態になり、今現在も物言わぬ人としてベッドの上で、日がな一日を過ごす人になっている。

今の状態で、母の鼻腔栄養を抜く選択肢は僕ら家族にはない。しかしそれは、母本人も、天国の父も、望んでいない状態ではないかと重たい気持ちになる。今現在だけの状態でいえば、僕たちは母に過酷な生き方をさせていると思えてならない。

鼻腔栄養をはずして、楽にしてあげたいと心の中で思っても、現実の状況はそのことを許してくれるものではない。だから僕は、いずれあの世で母にそのことを詫びなければならない。

その罪を背負って生きていかねばならない。

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