当施設における「看取り介護」の開始時期の判断については、「終末期の判断をめぐる諸問題」のなかで解説しているとおりであるが、その中でも書いているとおり、「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能ですが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよい」という判断の下、胃瘻を作らないで、経管栄養を行わないで終末期を過ごすという判断があり得ることを説明している。
しかしこうした考え方に関して異議を唱える人もいる。その場合の最大の反対理由は、経管栄養を行えば生命が維持できる人に、それを行わないことは「餓死させること」と同じだという理屈である。
これに関しては「PEGの神話」という記事の中で、経管栄養の問題点を指摘しているところであるが、自然死とはどういう状態かということを、このような議論から突き詰めて考えることは良いことだと思う。反対意見に耳を塞がず、しかしこうではないかという議論を重ねて初めて、我々は真剣に「看取り介護」という時期に、利用者に対して胸を張って「安心と安楽の支援」を提供できるのであって、自然死とは何ぞや?という議論は、もっと国民全体を巻き込んでおこなわれるべきである。
ところでこのことに関連して、自然死とは「点滴、酸素吸入などの医療行為をいっさい受けない」状態で最期の瞬間を迎えることであり、それが「もっとも理想的な死に方」であるとの観点から出版されている2つの書著を紹介したことがある。(参照:自然死、平穏死を考える)
その中で示されている2人の医師の主張の要点を以下にまとめてみたい。
(石飛幸三医師著:「平穏死のすすめ」講談社より要点を抜粋)
・胃瘻は意識が失われて嚥下機能が失われている人にとっては、極めて有効な栄養補給法です。そもそも現在のような、内視鏡を使っての胃瘻増設は今から約30年近く前に、子供の食道狭窄に対する応急処置として行われたのが始まりです。人生の始まりに対する応急処置が、老衰の果てまで適用されるとは、なんとも皮肉な感じを否めません。もはや物事を考えられなくなった人、喜怒哀楽さえ感じることさえできなくなった人に対して、強制的に栄養を補給することは本当に必要なことでしょうか?
・入所者が食べられなくなって最後の数日間の様子を見ていると、喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。
・何も体の中に入っていないのにおしっこがでます。 自分の体の中を整理整頓しているかのようです。体が死に馴染んでいく過程だといいます。このような状態では体から自然に麻薬物質であるエンドルフィンが出るといいます。だから苦痛がないといいます。
・せっかく楽に自然に逝けるものを、点滴や経管栄養や酸素吸入で無理やり叱咤激励して頑張らせる。顔や手足は水膨れです。我々は医療に依存しすぎたあまり、自然の摂理を忘れているのではないでしょうか。(中略)〜栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、それをしないと非人道的だと思ってしまうのです。しかしよく考えてください。自然死なのです。死なせる決断は既に自然界がしているのです。少なくとも神様は攻めるはずはありません。医師も家族も「自分が引導を渡した」ことになりたくないというのは錯覚に過ぎません。
(中川仁一医師著:「大往生したけりゃ医療とかかわるな」・幻冬舎新書より要点を抜粋)
・自然死の実体は、前術の通り、「餓死」(「飢餓」「脱水」)です。一般に「飢餓」「脱水」といえば、非常に悲惨に響きます。空腹なのに食べ物がない、のどが渇いているのに飲み水がない。例えば、砂漠をさまよったり、海に漂流したりする状況は、非常に辛いものと想像されます。
しかし同じ「飢餓」「脱水」といっても、死に際のそれは違うのです。いのちの火が消えかかっていますから、腹も減らない、のども渇かないのです。
人間は、生きていくためには飲み食いをしなくてはなりません。これは当たり前のことです。ところが生命力が衰えると、その必要性がなくなるのです。
「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされるといいます。
また「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりとした状態になります。
・強制人工栄養法には、胃瘻と鼻チューブ栄養ともう一つ、中心静脈栄養があります。もちろん、これらを一時期実施することにより、回復の可能性がある場合を否定するものではありません。
胃瘻が実施される理由としては、医療者側の、できることはすべてしなければならないおいう使命感、また、家族側の、しないと餓死させることになる、見殺しにはできないという罪の意識があると思われます。
この背景には「死」というものをまったく考えていないという事情があります。
・よく「点滴注射のおかげで1ケ月生かしてもらった」という話を耳にします。しかし、よく考えてください。点滴注射の中身はブドウ糖がわずかばかり入った、スポーツドリンクより薄いミネラルウオーターです。「水だけ与えるから、自分の身体を溶かしながら生きろ」というのは、あまりに残酷なのではないでしょうか。
・残される人間が、自分たちの辛さ軽減のため、あるいは自己満足のために死に行く人間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味あわせてはなりません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
引用ここまで。
以上である。中川仁一医師は自然死を「餓死」と表現してはいるが、それは健康な人が食物や水分を摂取できずに死を迎える「餓死」とは異なることを説明している。苦痛や、飢えや乾きはないというのである。その状態に無理に栄養や水分を強制補給することで逆に「安楽な状態」を阻害して、苦しめていると指摘している。
それでもなお胃瘻を作って強制的に栄養を流し、何年もその状態で心臓の鼓動をとめさせないことのほうが、良い生き方だと思うのだろうか?
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介護・福祉情報掲示板(表板)
しかしこうした考え方に関して異議を唱える人もいる。その場合の最大の反対理由は、経管栄養を行えば生命が維持できる人に、それを行わないことは「餓死させること」と同じだという理屈である。
これに関しては「PEGの神話」という記事の中で、経管栄養の問題点を指摘しているところであるが、自然死とはどういう状態かということを、このような議論から突き詰めて考えることは良いことだと思う。反対意見に耳を塞がず、しかしこうではないかという議論を重ねて初めて、我々は真剣に「看取り介護」という時期に、利用者に対して胸を張って「安心と安楽の支援」を提供できるのであって、自然死とは何ぞや?という議論は、もっと国民全体を巻き込んでおこなわれるべきである。
ところでこのことに関連して、自然死とは「点滴、酸素吸入などの医療行為をいっさい受けない」状態で最期の瞬間を迎えることであり、それが「もっとも理想的な死に方」であるとの観点から出版されている2つの書著を紹介したことがある。(参照:自然死、平穏死を考える)
その中で示されている2人の医師の主張の要点を以下にまとめてみたい。
(石飛幸三医師著:「平穏死のすすめ」講談社より要点を抜粋)
・胃瘻は意識が失われて嚥下機能が失われている人にとっては、極めて有効な栄養補給法です。そもそも現在のような、内視鏡を使っての胃瘻増設は今から約30年近く前に、子供の食道狭窄に対する応急処置として行われたのが始まりです。人生の始まりに対する応急処置が、老衰の果てまで適用されるとは、なんとも皮肉な感じを否めません。もはや物事を考えられなくなった人、喜怒哀楽さえ感じることさえできなくなった人に対して、強制的に栄養を補給することは本当に必要なことでしょうか?
・入所者が食べられなくなって最後の数日間の様子を見ていると、喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。
・何も体の中に入っていないのにおしっこがでます。 自分の体の中を整理整頓しているかのようです。体が死に馴染んでいく過程だといいます。このような状態では体から自然に麻薬物質であるエンドルフィンが出るといいます。だから苦痛がないといいます。
・せっかく楽に自然に逝けるものを、点滴や経管栄養や酸素吸入で無理やり叱咤激励して頑張らせる。顔や手足は水膨れです。我々は医療に依存しすぎたあまり、自然の摂理を忘れているのではないでしょうか。(中略)〜栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、それをしないと非人道的だと思ってしまうのです。しかしよく考えてください。自然死なのです。死なせる決断は既に自然界がしているのです。少なくとも神様は攻めるはずはありません。医師も家族も「自分が引導を渡した」ことになりたくないというのは錯覚に過ぎません。
(中川仁一医師著:「大往生したけりゃ医療とかかわるな」・幻冬舎新書より要点を抜粋)
・自然死の実体は、前術の通り、「餓死」(「飢餓」「脱水」)です。一般に「飢餓」「脱水」といえば、非常に悲惨に響きます。空腹なのに食べ物がない、のどが渇いているのに飲み水がない。例えば、砂漠をさまよったり、海に漂流したりする状況は、非常に辛いものと想像されます。
しかし同じ「飢餓」「脱水」といっても、死に際のそれは違うのです。いのちの火が消えかかっていますから、腹も減らない、のども渇かないのです。
人間は、生きていくためには飲み食いをしなくてはなりません。これは当たり前のことです。ところが生命力が衰えると、その必要性がなくなるのです。
「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされるといいます。
また「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりとした状態になります。
・強制人工栄養法には、胃瘻と鼻チューブ栄養ともう一つ、中心静脈栄養があります。もちろん、これらを一時期実施することにより、回復の可能性がある場合を否定するものではありません。
胃瘻が実施される理由としては、医療者側の、できることはすべてしなければならないおいう使命感、また、家族側の、しないと餓死させることになる、見殺しにはできないという罪の意識があると思われます。
この背景には「死」というものをまったく考えていないという事情があります。
・よく「点滴注射のおかげで1ケ月生かしてもらった」という話を耳にします。しかし、よく考えてください。点滴注射の中身はブドウ糖がわずかばかり入った、スポーツドリンクより薄いミネラルウオーターです。「水だけ与えるから、自分の身体を溶かしながら生きろ」というのは、あまりに残酷なのではないでしょうか。
・残される人間が、自分たちの辛さ軽減のため、あるいは自己満足のために死に行く人間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味あわせてはなりません。
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引用ここまで。
以上である。中川仁一医師は自然死を「餓死」と表現してはいるが、それは健康な人が食物や水分を摂取できずに死を迎える「餓死」とは異なることを説明している。苦痛や、飢えや乾きはないというのである。その状態に無理に栄養や水分を強制補給することで逆に「安楽な状態」を阻害して、苦しめていると指摘している。
それでもなお胃瘻を作って強制的に栄養を流し、何年もその状態で心臓の鼓動をとめさせないことのほうが、良い生き方だと思うのだろうか?
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介護・福祉情報掲示板(表板)
最近、作家久坂部羊の「破壊」や「廃用身」、「大学病院の裏は墓場」などを読み、高齢者の安楽とは何かを自分なりに
勉強しているところです。
我々の施設でも看取り介護を実施していますが、老衰期における食事量や水分量の調整をするケースがあると、介護職
員からは「もう少し食べれば元気になるのではないか?」「病院に行けば元気になるのではないか?」という意見も出て
きます。
看取りの介護の施設内研修を施設全体で行い、情報を共有をしていますが、なかなか伝わりきらないことも多くあります。
地域社会にある特養の存在と、そこで最後まで過ごすことのできる意味を伝え続けたいと思います。