僕が講演を行うテーマの一つに「認知症ケア」に関するものがある。
その中では脳科学的な考証として、脳のメカニズムを紐解きながら認知症の症状理解を促す説明も行なったりする。この部分については、僕が過去に誰かほかの方(認知症専門医が多い)に教わったことや、文献等から理解したことであり、机の上で学んできたことが中心になる。
しかし認知症の様々な症状に対して、どのように対応すべきかという点について言えば、誰かの講義を聴いて学んだことや、書物で学んだことだけを知識とし、その知識に基づいて壇上から受講者に伝えるだけでは不十分であると思うし、それは実際の現場サービスで使えるケアにはならないと感じている。
そもそも僕は単なるメッセンジャーではなく、実践者であると思っているし、僕の講演を聴きに来る方々も、学者の講義を望んでいるのではなく、実践者の現場からの情報発信を望んでいると考えている。そもそも受講者は、机をはさんで議論する知識を得たいのではなく、現場で実践できる方法を得たいのだと思う。
学者や医者が話す内容と同じ話をするなら、学者や医者を呼べば良いだけの話で、僕がわざわざ呼ばれる意味はないだろう。
僕が「認知症ケア」の講師としてそこに呼ばれる意味は、介護施設での経験から得た知識なり、方法論なりを伝えることが求められているのではないだろうか。
実際に認知症の方々に向き合ってはじめて分かることもある。実際に認知症の方と触れ合うことで、教科書に書いていた内容をはじめて理解できることもある。そうした経験から学んだことを理論化して、具体的な支援方法として文章化して、そのことをお話しないと実践に役立つ講演内容にならないと感じている。
だから僕の「認知症ケア」に関する講演では、実際に僕が経験した事例を取り上げたり、実際に自分が作成したケアプランの内容を具体的にお話することも多い。事実として行なっていることや、結果がでていることだから、ほかの現場でも使えるし、僕の失敗談は反面教師にもなり得ると思う。だから理念論や理想論で終わらないのである。
それらは実際に、施設サービスの現場で、居宅サービスの現場で、認知症の方や、その家族から教えられたことなのである。
例えば、記憶と感情について考えたとき、教科書には、「アルツハイマー型認知症の方は、海馬を中心した血流障害等が生じるために、記憶障害が症状として初期段階から現れるが、感情は残っている。」という意味のことが書かれている。でもそのことを具体的に説明するのは、現場で経験したケースに沿ってお話した方がわかりやすいし、対応の方法もより具体的に理解しやすくなる。
その教科書となってくれるのは、僕の場合いつも利用者とその家族である。
あるご夫婦から学んだことがある。認知症の症状が悪化して、精神科入院を経て当園に入園された妻に、在宅でひとり暮らしとなった夫が毎日のように面会に来ていた。入園当初は、認知症の妻も夫のこと分かっていたが、症状の進行でその記憶が徐々に失われていった。そして夫が誰かをわからなくなってしまった。
「もうワシが来ても誰だかわからないんだ」と寂しそうにつぶやく夫。妻はある時期から夫が誰だかわからないから、夫が部屋に入ってくると、怯えるような、不安そうな表情で迎えるようになった。しかし滞在時間が長くなると、妻の表情も和み、不安そうな表情は消えていく。毎日がその繰り返しであった。
寂しそうにつぶやく夫ではあったが、面会時の妻の表情を見ると、僕らと日常的に接している時とは異なる豊かな表情がある。そのことを知っていた僕は、何らかの形でそれを夫に伝えたいと思った。
あるとき僕が面会に来ている夫の前で、ふと奥様に、「この人誰だかわかりますか?」と尋ねたことがあった。妻はこう答えた。「知らない人」・・・。(僕)「でも今楽しそうに話していたではないですか。」、(妻)「そうか?」、しばらく沈黙が続いた後、その方はこう付け加えた。「わし、この人好きだ。」
自分の夫であるという記憶は失ってしまったけど、好き嫌いの感情は確かに残って、そのことをきちんと表現できるのである。誰だかわからないから警戒して不安な気持ちで毎日身構えても、話をしたり、時間を共有する中で、自分を優しく包み込む存在として、信頼し好きになっているのだ。
「毎日好きになられてよいですねえ」と僕は夫に声をかけた。「何を今更」と言った夫の顔もほころんでいた。それだけで良いのではないだろうか。
我々は、その夫から見習って、認知症の妻から好きになってもらえるように接すれば良いだけの話だ。その態度とは、全てのものを受け入れ否定しない態度であった。妻の行動に合わせて、ゆっくり静かに行動を合わせる態度であった。
在宅で認知症の奥様をケアしている人からも、同じような話を聞くことがある。ある方は、「俺はこいつ(奥さんこと)から、今年に入ってもう2回もプロポーズされてるんだ。」という。大事な妻が今でも自分を好きになってくれるなんて素敵なことだ。新しい恋が毎日芽生えるなんて素敵なことだ。そういう関係を作り出しているこの旦那さんは素敵な人だ。
きっとその旦那さんも、奥さんお目線に合わせて、奥さんの脅威にならない良いケアをしているんだろう。
認知症の人達は、昨日のことも、直前のことさえも忘れてしまって、過去と現在が繋がらないという「生活障害」を持っている。そのとき、失われた記憶の中で、認知症の方にとっては初めて出会う誰かが、いつも自分のことを思ってくれて、自分を支えてくれるのであれば、そのことに対して認知症の方の感情は、その時々でリアルタイムに感応しているのだ。このことを大事にすればよい。
良い感情をもって過ごせるようにすれば良い。究極的にいえば「認知症ケア」など、その事に尽きるのではないだろうか。
いかに気持ちよく、良い感情を抱いて過ごしていただけるように、我々が寄り添えるかということを探し、想像し、創造することが認知症ケアであり、アドボカシーではないだろうか。
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その中では脳科学的な考証として、脳のメカニズムを紐解きながら認知症の症状理解を促す説明も行なったりする。この部分については、僕が過去に誰かほかの方(認知症専門医が多い)に教わったことや、文献等から理解したことであり、机の上で学んできたことが中心になる。
しかし認知症の様々な症状に対して、どのように対応すべきかという点について言えば、誰かの講義を聴いて学んだことや、書物で学んだことだけを知識とし、その知識に基づいて壇上から受講者に伝えるだけでは不十分であると思うし、それは実際の現場サービスで使えるケアにはならないと感じている。
そもそも僕は単なるメッセンジャーではなく、実践者であると思っているし、僕の講演を聴きに来る方々も、学者の講義を望んでいるのではなく、実践者の現場からの情報発信を望んでいると考えている。そもそも受講者は、机をはさんで議論する知識を得たいのではなく、現場で実践できる方法を得たいのだと思う。
学者や医者が話す内容と同じ話をするなら、学者や医者を呼べば良いだけの話で、僕がわざわざ呼ばれる意味はないだろう。
僕が「認知症ケア」の講師としてそこに呼ばれる意味は、介護施設での経験から得た知識なり、方法論なりを伝えることが求められているのではないだろうか。
実際に認知症の方々に向き合ってはじめて分かることもある。実際に認知症の方と触れ合うことで、教科書に書いていた内容をはじめて理解できることもある。そうした経験から学んだことを理論化して、具体的な支援方法として文章化して、そのことをお話しないと実践に役立つ講演内容にならないと感じている。
だから僕の「認知症ケア」に関する講演では、実際に僕が経験した事例を取り上げたり、実際に自分が作成したケアプランの内容を具体的にお話することも多い。事実として行なっていることや、結果がでていることだから、ほかの現場でも使えるし、僕の失敗談は反面教師にもなり得ると思う。だから理念論や理想論で終わらないのである。
それらは実際に、施設サービスの現場で、居宅サービスの現場で、認知症の方や、その家族から教えられたことなのである。
例えば、記憶と感情について考えたとき、教科書には、「アルツハイマー型認知症の方は、海馬を中心した血流障害等が生じるために、記憶障害が症状として初期段階から現れるが、感情は残っている。」という意味のことが書かれている。でもそのことを具体的に説明するのは、現場で経験したケースに沿ってお話した方がわかりやすいし、対応の方法もより具体的に理解しやすくなる。
その教科書となってくれるのは、僕の場合いつも利用者とその家族である。
あるご夫婦から学んだことがある。認知症の症状が悪化して、精神科入院を経て当園に入園された妻に、在宅でひとり暮らしとなった夫が毎日のように面会に来ていた。入園当初は、認知症の妻も夫のこと分かっていたが、症状の進行でその記憶が徐々に失われていった。そして夫が誰かをわからなくなってしまった。
「もうワシが来ても誰だかわからないんだ」と寂しそうにつぶやく夫。妻はある時期から夫が誰だかわからないから、夫が部屋に入ってくると、怯えるような、不安そうな表情で迎えるようになった。しかし滞在時間が長くなると、妻の表情も和み、不安そうな表情は消えていく。毎日がその繰り返しであった。
寂しそうにつぶやく夫ではあったが、面会時の妻の表情を見ると、僕らと日常的に接している時とは異なる豊かな表情がある。そのことを知っていた僕は、何らかの形でそれを夫に伝えたいと思った。
あるとき僕が面会に来ている夫の前で、ふと奥様に、「この人誰だかわかりますか?」と尋ねたことがあった。妻はこう答えた。「知らない人」・・・。(僕)「でも今楽しそうに話していたではないですか。」、(妻)「そうか?」、しばらく沈黙が続いた後、その方はこう付け加えた。「わし、この人好きだ。」
自分の夫であるという記憶は失ってしまったけど、好き嫌いの感情は確かに残って、そのことをきちんと表現できるのである。誰だかわからないから警戒して不安な気持ちで毎日身構えても、話をしたり、時間を共有する中で、自分を優しく包み込む存在として、信頼し好きになっているのだ。
「毎日好きになられてよいですねえ」と僕は夫に声をかけた。「何を今更」と言った夫の顔もほころんでいた。それだけで良いのではないだろうか。
我々は、その夫から見習って、認知症の妻から好きになってもらえるように接すれば良いだけの話だ。その態度とは、全てのものを受け入れ否定しない態度であった。妻の行動に合わせて、ゆっくり静かに行動を合わせる態度であった。
在宅で認知症の奥様をケアしている人からも、同じような話を聞くことがある。ある方は、「俺はこいつ(奥さんこと)から、今年に入ってもう2回もプロポーズされてるんだ。」という。大事な妻が今でも自分を好きになってくれるなんて素敵なことだ。新しい恋が毎日芽生えるなんて素敵なことだ。そういう関係を作り出しているこの旦那さんは素敵な人だ。
きっとその旦那さんも、奥さんお目線に合わせて、奥さんの脅威にならない良いケアをしているんだろう。
認知症の人達は、昨日のことも、直前のことさえも忘れてしまって、過去と現在が繋がらないという「生活障害」を持っている。そのとき、失われた記憶の中で、認知症の方にとっては初めて出会う誰かが、いつも自分のことを思ってくれて、自分を支えてくれるのであれば、そのことに対して認知症の方の感情は、その時々でリアルタイムに感応しているのだ。このことを大事にすればよい。
良い感情をもって過ごせるようにすれば良い。究極的にいえば「認知症ケア」など、その事に尽きるのではないだろうか。
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