介護サービスの現場は、「人の暮らし」という最も非専門的な領域に関わる仕事である。この「非専門領域」という自覚がないと我々は常に間違ってしまう。

社会福祉援助の専門家が存在するとしても、誰か他人の暮らしの専門家など存在しないのである。このことを自覚しないと、自分の価値観を強引に誰かに押し付けて自己満足するだけの行為を、「社会福祉援助」だと勘違いしてしまう。それがこの仕事の恐ろしいところである。

僕自身が考える「良い状態」は、果たして利用者が考えるそれと同じなのかという問いを繰り返していかないと、他者の生活を、ある一定の枠組みにはめ込むことが「生活支援」であると思い込んで、その枠の中で、もがき苦しみ、哀しんでいる人々の姿さえ見えなくなってしまう。

そういう状態に陥った社会福祉援助者は、その人自身が「生活障害」そのものである。それは専門家ではなく、専門知識をかじった悪魔である。

法律は一括処理を原則としている。例えば介護保険法は、対象となる高齢者等をひとくくりにして法文が書かれているために、この街に住むAさんや、Bさんに法の光が届かないことがある。ソーシャルケースワークとは、この影の部分を照らすために存在する援助技術なのに、それを使う専門家が「闇」を創り出してしまってはどうしようもない。介護保険制度を手直しする専門部会は、結果的には光の届ける範囲を狭める方向にばかり制度を誘導してしまっているのだから、光を届けるべき我々の役割はより重要になっているのである。

我々は誰かの暮らしを支援するといっても、それは我々の持つ知識や思いの範疇から答えを与えるものではない。

支援を必要とする対象者自身が答えを見つけるために、我々が持つ専門知識や技術を酷使しながら「ともに答えを探す」ことが求められているのである。そうしたケアパートナーとしての自覚がなくなれば、暮らしを支援する方法は常に、援助者の知識と価値観の範疇を超えないことになる。それでは生活の「個別化」など不可能になる。アセスメントも形骸化するだろう。

共に歩むケアパートナーであろうとする限り、そこには利用者の思いに寄り添おうとする自覚が生まれるだろう。だから我々は利用者に対して無関心ではいられないし、関心を持って真剣に利用者に思いを寄せるのである。どんなに知識があっても、この「思い」がなければ、本当の意味での「暮らしの支援」など不可能ではないだろうか。

だが注意して欲しいことがある。

誰かのことを真剣に思うことは大切なことである。しかし「思う」という言葉には、否定的な意味もある。「思い込む」という言葉は、誤解するという意味にも通じる。勝手な「思い込み」は、これも自身の価値観の押し付けにつながりかねないのだ。

「思いつめる」という言葉もある。何か困難があってもひとりで思いつめてはいけない。人は誰しも誰かに手を貸してもらわねばならないことがあるのだ。思いつめた状態では、人は自らの心を壊してしまう。

思いつめると、思うという文字には、角が生え、しっぽが生えてくるのだ。そうなると「思」という文字は、「鬼」という文字に変わってしまう。だからひとりで思いつめないことも大事だ。

我々に必要とされる「思う心」というのは、利用者の様々な状況を考え、その原因を想像し、その状況より良い暮らしがあるとすれば、その向こうに実現する暮らしを想像し、そこに至る可能性を創造することである。

その「思い」が真剣でさえあれば、我々と「虐待」とは無縁であるだろう。

しかし人を思うことを放棄し、日々の生活の疲れに流され、心を麻痺させた時に、人は人の悲しみをなんとも思わなくなるのだろう。虐待とはそこから始まるものであり、僕やあなたと全く無縁なものでもないという自覚も必要だろう。

僕や僕の仲間たちが、そんな状態に陥らないために、僕は人を語り、介護を語り、愛を語り続けるだろう。そういう僕の言葉に耳を傾けてくれる人々がいる限り、僕の旅は続いていくだろう。

そこで僕の考え方や、やり方に共鳴してくれる人との繋がりが、我々自身の力になっていくのではないだろうか。そう信じていたい。

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