フェイスブックを始めて3週間以上経った。そこは「友達」が集まる場所なので、様々なことを気兼ねなく書いている。
また本来の使い方としては邪道かもしれないが、フェイスブックを通じて友達になった人が、その縁で僕の出版記念シンポジムや講演会に足を運んでくれるということもあり、新しい繋がりができる場にもなっている。(本来とは、そこで繋がるんではなく、もともと顔見知りが友達になるのが原則だと書いているものがあったので。)
どちらにしても、そこは匿名性のある場所ではないので、本名を名乗り合った関係者が繋がっている。プライベートな話題も飛び交っており、まさに「一息つける」癒しの場所という性格が強いと感じている。
ここ何日かは、僕の思いのこもった唄の紹介を書いたりしている。フェイスブックに登録していない人は見ることができない記事だが、今日は記事を書く時間もあまりとれない忙しい日なので、ちょっとだけそこに書いた内容を転記してここで紹介したい。(要するに時間をかけて記事を書いていられないので、手抜きさせてもらって、フェイスブックに書いていたものを転載するって言う意味です。)
(3/29日書いたもの)
先ほど当法人の理事会が終わりました。今回は新年度事業計画と、当初予算案の承認が主たる議題ですから、当然のことながら大幅に下げられた介護報酬について説明し、厳しい状況での予算組みの理解を求めました。
もともと30年近く運営し、勤続年数の長い職員を数多く抱えている当法人は、巷でいわれるような5%を超えるような収益率はなく、ましてや10%等という収益率とは無縁で、しかも職員の定着率も高いですから、人件費率は高くなってくるわけで、これに輪をかけて福利厚生費の事業主負担増と、石油燃料の高騰が追い打ちをかけ、今回の介護報酬減額は非常に頭の痛いところです。
だからと言って単年度赤字を出して、繰越金をどんどん取り崩して行きなさいという理事はいませんので、これから3年間の運営は非常に難しいものになるわけです。
ただ忘れてはいけないのは、我々のサービスとは福祉援助サービスであるということで、利用者の暮らしを守ることがまず優先されて考えられるべき問題で、安かろう悪かろうというサービスにしてはならないし、その暮らしの支援の一番根っことなる介護する人材には、きちんと報酬を手渡していかねばならないということです。
職員が利用者にとっての「赤い花」となり得るためには、職員待遇を含めて、安心して働ける職場で、その能力が最大限発揮できるのでなければ成り立たないサービスであるということです。
ここを忘れないように身を削っていくのが福祉経営者の責務でしょう。初心忘れるべからず。
さだまさしさんが、かつて長崎平和音楽祭を主催していた時、いつも最後に唄っていたのが「祈り」という曲です。彼は唄っていました。「短い花の命を、ささやかなこの愛で染めたい」と。きっとさださんも、誰かにとっての「愛で染めた色の花」でいたいと思っていたのでしょう。福祉援助に携わる我々は、どのような厳しい状況でも、誰かの心を癒す存在になろうとする心を失ってはいけないと思います。
(3/28日書いたもの)
僕は中学卒業後、名寄高校に進学しましたが、当時僕が住んでいた下川鉱山から同校に通うために、朝7:05発のバスに乗る必要があって、家を出るのは6:40くらいでした。15歳のときですから、この早起きは辛いものがありました。
しかし父の転勤のため、高校1年に進学後すぐに岩見沢市というところに引っ越さねばならなくなり、入学したばかりの名寄高校から、岩見沢西高という高校に転校しました。知らない土地の、知らない高校で、新しい友達を作るのも大変かなと思いましたが、ひとつ良いところは、当時引っ越した家が新しい高校のすぐ近くで、早起きしなくてもよくなり、朝は8時過ぎにゆっくり家を出ることが可能になりました。(家は親戚の持ち家を買いましたので、土地つきの一戸建てでした。)
高校に家が近いため、新しくできた友達も、僕の家によって一休み(親に隠れて煙草を一服していたというのが真相です)してから登校するという連中が集まり始めました。バイク通学が禁止されていた為、僕に家にバイクを止めて、そこから歩いて行く同級生もいました。そいつらも僕の部屋で煙草を一服してから通学してました。勿論、僕も当時はいっぱしのヘビースモーカー。今はやめてますから、順番が違いますよね。
その当時、同級生と煙草を吸いながら、TBS系列(北海道ではHBCです)の「八時の空」という番組がありました。そこには田中星児さんと、水越けい子さんが唄のお兄さんとお姉さんとして出演していました。ビューティフルサンデーがヒットしたきっかけになった番組ですよね。僕らは煙草を吸いながらほとんど毎日その番組を見ていました。その当時の「けい子オネエ」の綺麗だったこと・・・。憧れでしたね。
僕もギターを弾いていましたが、女性ボーカルのコピーは苦手で、聴くのもほとんど男性ボーカルばかりでしたが、この番組の影響からか、けい子オネエの唄は良く聞きました。その中でも好きな唄は「Touct me in the memory」です。
オネエの少しハスキーな声が曲にマッチして最高でしたね。これも胸に迫る切ない歌詞とメロディですが、特に2番のセリフに
「悪いことだと知りながら、別な人に心、揺らせたこともある」なんてとこは、ああ大人の恋だなあア・・・と何となく憧れたり、16歳の可憐な胸を焦がしたりしたものです。
今でもこの唄を聴くと、その時の気持ちがよみがえります。
(3/26日書いたもの)
チューリップのリードボーカルが姫野達也から財津和夫に替るきっかけになった曲「青洲の影」は、僕のとても好きな唄の一つです。
でもこの唄を結婚式に歌う人がいます。それはいただけません。あれは少年が青年に成長していく中で、愛の厳しさや哀しさを知って行く過程を唄った「せつない別れの唄」なんです。
優しくも、哀しい「さよなら」のメロディなんです。切ない時に歌うべき唄なんです。
だから祝いの席では唄わないでください。
こんなふうにして遊んでいる。皆さんもフェイスブックに挑戦してはどうだろう。
新刊のネットからの購入は
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介護・福祉情報掲示板(表板)
また本来の使い方としては邪道かもしれないが、フェイスブックを通じて友達になった人が、その縁で僕の出版記念シンポジムや講演会に足を運んでくれるということもあり、新しい繋がりができる場にもなっている。(本来とは、そこで繋がるんではなく、もともと顔見知りが友達になるのが原則だと書いているものがあったので。)
どちらにしても、そこは匿名性のある場所ではないので、本名を名乗り合った関係者が繋がっている。プライベートな話題も飛び交っており、まさに「一息つける」癒しの場所という性格が強いと感じている。
ここ何日かは、僕の思いのこもった唄の紹介を書いたりしている。フェイスブックに登録していない人は見ることができない記事だが、今日は記事を書く時間もあまりとれない忙しい日なので、ちょっとだけそこに書いた内容を転記してここで紹介したい。(要するに時間をかけて記事を書いていられないので、手抜きさせてもらって、フェイスブックに書いていたものを転載するって言う意味です。)
(3/29日書いたもの)
先ほど当法人の理事会が終わりました。今回は新年度事業計画と、当初予算案の承認が主たる議題ですから、当然のことながら大幅に下げられた介護報酬について説明し、厳しい状況での予算組みの理解を求めました。
もともと30年近く運営し、勤続年数の長い職員を数多く抱えている当法人は、巷でいわれるような5%を超えるような収益率はなく、ましてや10%等という収益率とは無縁で、しかも職員の定着率も高いですから、人件費率は高くなってくるわけで、これに輪をかけて福利厚生費の事業主負担増と、石油燃料の高騰が追い打ちをかけ、今回の介護報酬減額は非常に頭の痛いところです。
だからと言って単年度赤字を出して、繰越金をどんどん取り崩して行きなさいという理事はいませんので、これから3年間の運営は非常に難しいものになるわけです。
ただ忘れてはいけないのは、我々のサービスとは福祉援助サービスであるということで、利用者の暮らしを守ることがまず優先されて考えられるべき問題で、安かろう悪かろうというサービスにしてはならないし、その暮らしの支援の一番根っことなる介護する人材には、きちんと報酬を手渡していかねばならないということです。
職員が利用者にとっての「赤い花」となり得るためには、職員待遇を含めて、安心して働ける職場で、その能力が最大限発揮できるのでなければ成り立たないサービスであるということです。
ここを忘れないように身を削っていくのが福祉経営者の責務でしょう。初心忘れるべからず。
さだまさしさんが、かつて長崎平和音楽祭を主催していた時、いつも最後に唄っていたのが「祈り」という曲です。彼は唄っていました。「短い花の命を、ささやかなこの愛で染めたい」と。きっとさださんも、誰かにとっての「愛で染めた色の花」でいたいと思っていたのでしょう。福祉援助に携わる我々は、どのような厳しい状況でも、誰かの心を癒す存在になろうとする心を失ってはいけないと思います。
(3/28日書いたもの)
僕は中学卒業後、名寄高校に進学しましたが、当時僕が住んでいた下川鉱山から同校に通うために、朝7:05発のバスに乗る必要があって、家を出るのは6:40くらいでした。15歳のときですから、この早起きは辛いものがありました。
しかし父の転勤のため、高校1年に進学後すぐに岩見沢市というところに引っ越さねばならなくなり、入学したばかりの名寄高校から、岩見沢西高という高校に転校しました。知らない土地の、知らない高校で、新しい友達を作るのも大変かなと思いましたが、ひとつ良いところは、当時引っ越した家が新しい高校のすぐ近くで、早起きしなくてもよくなり、朝は8時過ぎにゆっくり家を出ることが可能になりました。(家は親戚の持ち家を買いましたので、土地つきの一戸建てでした。)
高校に家が近いため、新しくできた友達も、僕の家によって一休み(親に隠れて煙草を一服していたというのが真相です)してから登校するという連中が集まり始めました。バイク通学が禁止されていた為、僕に家にバイクを止めて、そこから歩いて行く同級生もいました。そいつらも僕の部屋で煙草を一服してから通学してました。勿論、僕も当時はいっぱしのヘビースモーカー。今はやめてますから、順番が違いますよね。
その当時、同級生と煙草を吸いながら、TBS系列(北海道ではHBCです)の「八時の空」という番組がありました。そこには田中星児さんと、水越けい子さんが唄のお兄さんとお姉さんとして出演していました。ビューティフルサンデーがヒットしたきっかけになった番組ですよね。僕らは煙草を吸いながらほとんど毎日その番組を見ていました。その当時の「けい子オネエ」の綺麗だったこと・・・。憧れでしたね。
僕もギターを弾いていましたが、女性ボーカルのコピーは苦手で、聴くのもほとんど男性ボーカルばかりでしたが、この番組の影響からか、けい子オネエの唄は良く聞きました。その中でも好きな唄は「Touct me in the memory」です。
オネエの少しハスキーな声が曲にマッチして最高でしたね。これも胸に迫る切ない歌詞とメロディですが、特に2番のセリフに
「悪いことだと知りながら、別な人に心、揺らせたこともある」なんてとこは、ああ大人の恋だなあア・・・と何となく憧れたり、16歳の可憐な胸を焦がしたりしたものです。
今でもこの唄を聴くと、その時の気持ちがよみがえります。
(3/26日書いたもの)
チューリップのリードボーカルが姫野達也から財津和夫に替るきっかけになった曲「青洲の影」は、僕のとても好きな唄の一つです。
でもこの唄を結婚式に歌う人がいます。それはいただけません。あれは少年が青年に成長していく中で、愛の厳しさや哀しさを知って行く過程を唄った「せつない別れの唄」なんです。
優しくも、哀しい「さよなら」のメロディなんです。切ない時に歌うべき唄なんです。
だから祝いの席では唄わないでください。
こんなふうにして遊んでいる。皆さんもフェイスブックに挑戦してはどうだろう。
新刊のネットからの購入は
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介護・福祉情報掲示板(表板)
いつも古瀬先生のブログを介してお邪魔しておりましたので、
今回私の本体ブログの方、ブックマークにリンクさせて頂きました。
本を先生から頂き、真剣に読みました。
仕事も母の事でも色々あり、心が前向きになれなかったとき、この本は
私にとってお守りのようでした。先生から東京に会いにいってみないかと
誘われて、半分勢いで行きました。あんなに熱気のあるパーティーだとは知らず
時間がなかったものの、講演会も聞いてみたかったと思いました。
あの時出会った皆さんとまた色々お話がしたくなり、フェイスブックにも登録する
事になりました。あまりお話しする時間は持てませんでしたが、とても元気を頂き
ました。本当にありがとうございました。
音楽癒しになります。仕事で行き場のなくなった時、最近新しく立ち上げた
音楽ブログで癒されてます。これをご縁にまたお邪魔させて下さいね。
東京でのお礼を兼ねてご挨拶まで、これからもよろしくおねがいします。