今日16日は、各地の学校で卒業式が行われたことだろう。

この4月から社会人となる僕の長男も、札幌近郊の4年生福祉系大学を卒業する。朝「卒業おめでとう」とメールを送ったら、「ありがとう」という返信があった。一言だけのコミュニケーションだが、親としては特別に深い感情をその文字から読みとれる気がした。彼のこれからの人生が幸多いものであることを、親として願ってやまない。

卒業式の前日の夜も、彼は障がい者ボランティアとして活動していた。誰の子かと思うほど真面目な面があって、逆にそのことが少し心配だったりする。今日は友達と時間を忘れて、少しは歯目を外して楽しい夜を過ごしてほしい。

彼らはまだ気がつかないだろうが、大学を卒業するということは、そこで出逢い、関係を紡いだ友と別れるときでもある。それらの友人とは、もしかしたら一生の間に再会する機会もないかもしれないという別れだ。それだけ重たい時間を過ごしているという意味だ。二度と取り戻せない今このときを大切にしてほしい。

そしてこれからは、自分一人の力だけで何かに立ち向かわねばならない大人として社会から扱われていく。知らない間に、責任を背負って生きていくことになるんだ。

彼のように、この春、大学や専門学校を卒業して、介護施設等の対人援助サービスの現場に就業する若者たちは多い。

彼らが、福祉や介護を自らの職業として選択する理由の最たるものは「人の役に立つ仕事だから」というものだ。これは時代が変わっても、いつも変わることのない就業動機である。

それは彼らが、人のためになる職業を通して、社会の役に立ちたいという意味である事と同時に、言葉を変えれば「人を愛するために人は生きている」という意味であり、人を愛したいという動機である 。人を愛した結果として、どんな未来が生まれるのかを彼らは無意識にイメージしているはずだ。それを忘れないでほしい。

一方、彼らを受け入れる我々の職場は、彼らの就業動機を満足させ得る現場となっているだろうか。我々自身が人を愛し、人を幸福にする対人援助サービスを実践し得ているだろうか。

新入職員が入職してくるこの時期に、我々はそのことをもう一度振り返らねばならない。

少なくとも、人を幸福にしたいという動機を持つ人々が、現実は「介護は人を幸福にしていない」「人の不幸を創りだしている」と考えて、幻滅したり、絶望したりするような職場であってはならない。仕事だから理想論は通用しないという変な理屈で、人を人とも思わないケアという名の作業労働を創りだしてはならない。

虐待を正当化するものなどこの世に存在しない。虐待を虐待と認識する当たり前の感覚を失ってはならない。

今この時期だからこそ、我々は自らの日常を振り返って、自身に問いかけねばならない。
・あなたがいることで、あなたの目の前の人々は幸せになっていますか。
・あなたの存在が周りの人々の笑顔に結びついていますか。
・あなたはそのことに必要とされていますか。

福祉援助や介護サービスとは、支援を必要とする人々を、心にかけて守り助けることであり、尊厳やプライバシーを守るケアパートナーとして我々は存在するのだということを、新しく入職する人々に正しく伝えなければならない。

福祉援助や介護サービスとは、人を幸せにする暮らしをつくる援助活動であり、そのことによって幸福をたくさん創りだしているんだという誇りを持てる職業にしないとならない。そうした素晴らしい職業であるという自負を後輩に伝えることができる実践者であらねばならない。

そうしないと、この仕事の現場に、有能な人材は貼りつかなくなるだろう。

制度がどうなろうと、我々が持つべき理念は決して揺らぐことがないはずである。我々が人間として、本当に福祉援助の場を人間らしい活動の場にしようとする限り、迷路はそこに存在しないはずである。

私たちが利用者に対してできることは、社会全体からみればとても小さな、とるに足らないことだ。だけど小ささを恥じて、それをしまいこむ人が多すぎる。小さな事ができる人がいるから、誰かが幸せになれるのだ。どうぞその小ささを恥じずに誇りを持って続けてほしい。

そしてこの職業は「誰かの赤い花」になることができる仕事であるということを、後輩たちに伝えてほしい。

君はどっちになりたいですか? 赤い花に慰められる人と、 慰める赤い花と・・・。」…やはり僕は桑田判事(小学館コミック・家栽の人より)のこの言葉が好きだ。そして後輩たちにこの言葉を贈りたい。


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