時として、自分のことさえ分からなくかるのが人間という存在である。
自分のことは、自分が一番よく分かっているというのは幻想だ。自分のことだからこそ分からなくなることがある。鏡に映る自分は、真の自分の姿ではないように、第3者からしか見えないものがある。それは姿・形という意味ではなく、自分の内面をも含めての問題だ。
だから自分の事が良くわからなくて、袋小路に入ったように不安を持つことは、決して不思議なことではない。誰しもそういう状態に陥る可能性を持っているのである。自分の全てが分かるほど、神は人間に能力を与えてくれているわけではないのだ。
時に人は、自分が見えなくなり、道に迷うことがある。それが人間の持つ宿命である。そこから前を向き歩き続けるというのが人生である。それは自分だけに課せられたいばらの道ではなく、人であれば誰しも背負う業(ごう)である。
そして人間とは必ず間違える存在でもある。
数十年生きてきた人が、自分の前半生を振り返って、まったく後悔がないなんて言うことはあり得ないだろう。その時はベターの選択だと思ったことであっても、あとから別の道を選べば良かったと後悔することだってある。それは極めて普通のことで、悔いの多い人生だからと言って、そのことを背負って自分自身を押しつぶしてしまってはならない。多かれ少なかれ誰しも後悔を背負って生きているのである。
だが、神は我々に後悔ばかりして生きることがないように、「忘れる」という能力を人に与えたもうた。つらい過去を忘却し、明るい未来に向けて前を向くことが許される旅が人生である。反省は必要だが、反省ばかりでは何も生まれない。反省を明日へ繋げるのは、「希望」ではないだろうか。少なくとも僕はそれを信じて生きる人でありたい。
人の強さとは、生きていく強さとは、ある意味その人物のなかに「いい加減さ」があることだと思う。何でもかんでも真面目に考えすぎないことだ。形からはみ出したものを全て否定してしまわないことだ。
たいした根拠がないことでも「何とかなるさ」という良い意味でのいい加減さが必要だと思う。それを人はプラス思考とか、ポジティブな考え方と呼ぶのではないのか?開き直らなくとも前を向ける「いい加減さ」を持つことは悪いことではないじゃないのか。それはチャラチャラした「いい加減」ではなく、「良い・加減=塩梅」である。それってadjustment じゃないのか。
僕は、僕自身の中に存在する「ある種のいい加減さ」に気がついている。だからと言ってそんな部分を持つ自分を否定するつもりはない。
人がどう思おうと、そのいい加減さが、自分にとっての幅(はば)である。その幅によって僕はいろいろなものを受容することができる。その幅によって僕は、様々なものを許すことができる。ソーシャルワーカーが持つべき「自己覚知」は、その能力を引き上げる要素になり得るだろうが、同時にそれだけではどうしようもない部分を、僕のいい加減さは補ってくれるのである。
それは親からもらった命を尊ぶ心と結びついている。僕の血の中に脈々と続くものがあり、そこから受け継いだものがある。それを否定せず、ありがたく思うことが、自分自身を受容し、自分自身を否定しないことである。
自分は世に秀でた能力を持つ存在ではないし、なにか自慢できる個性を持つ存在でもないが、自分自身の存在を自らが敬い、自分自身を誇りに思うことは、自分を創り上げてくれた様々なものに感謝することである。親から、あるいはご先祖からいただいた血脈・命に感謝することが、自分にできる一番の恩返しである。
同じように、人は誰しもがその存在自体に価値があるものだろうと思う。
社会福祉援助は、そうした尊厳ある人間の幸福を追求して、人が人として敬われ、人としてその持ち得る能力を最大限に発揮して暮らすことができることを支援するものではないだろうか。
幸福と贅沢は異なるものだろう。人間の真の幸福とは、心の豊かさ・心の平安を伴うものであり、物質の上に胡坐をかいて、心の豊かさや平安を伴わないものは、本当の意味での幸福ではないのではないのか。
我々が目指す「幸福追求」とは、倹(つま)しくとも、人間らしい暮らしの中にある日々の喜びを、全ての人々が感じられる社会を目指すことなのかもしれない。
だからといって、幸福追求という「斧」を大上段に振りかざして、他人(ひと)に何かを押し付けることを欲しているわけではない。そういう存在は必要とされないだけではなく、他人にとっては迷惑だろう。
見知らぬ街の見知らぬ路上で、なんかに困っている人がいた時に、そっと声をかけ、手助けをして、名を知られることもなくその場から消え去る存在であれば、それが一番である。さわやかな風のように、吹き去れば消えてなくなる存在が一番だろう。社会福祉援助や、その援助者とは、本来そうした存在である。
名もなき一市民として、歴史の中に埋もれた多くの先人たちにより、我々はその援助理論や技術を受け継いでいくのであり、歴史に名を刻む著名人だけから手渡されたものだけが積み重なっているわけではないのだ。
名もなき存在としてでも、社会の片隅で、それぞれのステージで人を愛し、人を見つめ、人とともに歩む人々が存在する。その向こうに、皆が笑って生きることができる、倹しくても優しい豊かな社会を目指して、一歩ずつ前に進もうとするのが僕達のやり方である。
それは僕の中のいい加減な部分をも含めて受容してくれる周囲の人々によって支えられているものでもある。
一人でできることなんて何もない。だから「アリガトウ」は大事な言葉である。
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自分のことは、自分が一番よく分かっているというのは幻想だ。自分のことだからこそ分からなくなることがある。鏡に映る自分は、真の自分の姿ではないように、第3者からしか見えないものがある。それは姿・形という意味ではなく、自分の内面をも含めての問題だ。
だから自分の事が良くわからなくて、袋小路に入ったように不安を持つことは、決して不思議なことではない。誰しもそういう状態に陥る可能性を持っているのである。自分の全てが分かるほど、神は人間に能力を与えてくれているわけではないのだ。
時に人は、自分が見えなくなり、道に迷うことがある。それが人間の持つ宿命である。そこから前を向き歩き続けるというのが人生である。それは自分だけに課せられたいばらの道ではなく、人であれば誰しも背負う業(ごう)である。
そして人間とは必ず間違える存在でもある。
数十年生きてきた人が、自分の前半生を振り返って、まったく後悔がないなんて言うことはあり得ないだろう。その時はベターの選択だと思ったことであっても、あとから別の道を選べば良かったと後悔することだってある。それは極めて普通のことで、悔いの多い人生だからと言って、そのことを背負って自分自身を押しつぶしてしまってはならない。多かれ少なかれ誰しも後悔を背負って生きているのである。
だが、神は我々に後悔ばかりして生きることがないように、「忘れる」という能力を人に与えたもうた。つらい過去を忘却し、明るい未来に向けて前を向くことが許される旅が人生である。反省は必要だが、反省ばかりでは何も生まれない。反省を明日へ繋げるのは、「希望」ではないだろうか。少なくとも僕はそれを信じて生きる人でありたい。
人の強さとは、生きていく強さとは、ある意味その人物のなかに「いい加減さ」があることだと思う。何でもかんでも真面目に考えすぎないことだ。形からはみ出したものを全て否定してしまわないことだ。
たいした根拠がないことでも「何とかなるさ」という良い意味でのいい加減さが必要だと思う。それを人はプラス思考とか、ポジティブな考え方と呼ぶのではないのか?開き直らなくとも前を向ける「いい加減さ」を持つことは悪いことではないじゃないのか。それはチャラチャラした「いい加減」ではなく、「良い・加減=塩梅」である。それってadjustment じゃないのか。
僕は、僕自身の中に存在する「ある種のいい加減さ」に気がついている。だからと言ってそんな部分を持つ自分を否定するつもりはない。
人がどう思おうと、そのいい加減さが、自分にとっての幅(はば)である。その幅によって僕はいろいろなものを受容することができる。その幅によって僕は、様々なものを許すことができる。ソーシャルワーカーが持つべき「自己覚知」は、その能力を引き上げる要素になり得るだろうが、同時にそれだけではどうしようもない部分を、僕のいい加減さは補ってくれるのである。
それは親からもらった命を尊ぶ心と結びついている。僕の血の中に脈々と続くものがあり、そこから受け継いだものがある。それを否定せず、ありがたく思うことが、自分自身を受容し、自分自身を否定しないことである。
自分は世に秀でた能力を持つ存在ではないし、なにか自慢できる個性を持つ存在でもないが、自分自身の存在を自らが敬い、自分自身を誇りに思うことは、自分を創り上げてくれた様々なものに感謝することである。親から、あるいはご先祖からいただいた血脈・命に感謝することが、自分にできる一番の恩返しである。
同じように、人は誰しもがその存在自体に価値があるものだろうと思う。
社会福祉援助は、そうした尊厳ある人間の幸福を追求して、人が人として敬われ、人としてその持ち得る能力を最大限に発揮して暮らすことができることを支援するものではないだろうか。
幸福と贅沢は異なるものだろう。人間の真の幸福とは、心の豊かさ・心の平安を伴うものであり、物質の上に胡坐をかいて、心の豊かさや平安を伴わないものは、本当の意味での幸福ではないのではないのか。
我々が目指す「幸福追求」とは、倹(つま)しくとも、人間らしい暮らしの中にある日々の喜びを、全ての人々が感じられる社会を目指すことなのかもしれない。
だからといって、幸福追求という「斧」を大上段に振りかざして、他人(ひと)に何かを押し付けることを欲しているわけではない。そういう存在は必要とされないだけではなく、他人にとっては迷惑だろう。
見知らぬ街の見知らぬ路上で、なんかに困っている人がいた時に、そっと声をかけ、手助けをして、名を知られることもなくその場から消え去る存在であれば、それが一番である。さわやかな風のように、吹き去れば消えてなくなる存在が一番だろう。社会福祉援助や、その援助者とは、本来そうした存在である。
名もなき一市民として、歴史の中に埋もれた多くの先人たちにより、我々はその援助理論や技術を受け継いでいくのであり、歴史に名を刻む著名人だけから手渡されたものだけが積み重なっているわけではないのだ。
名もなき存在としてでも、社会の片隅で、それぞれのステージで人を愛し、人を見つめ、人とともに歩む人々が存在する。その向こうに、皆が笑って生きることができる、倹しくても優しい豊かな社会を目指して、一歩ずつ前に進もうとするのが僕達のやり方である。
それは僕の中のいい加減な部分をも含めて受容してくれる周囲の人々によって支えられているものでもある。
一人でできることなんて何もない。だから「アリガトウ」は大事な言葉である。
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