今年も残すところ、あと3日だ。
今、僕には仕事を終えた夜に通う場所がある。それは母が入院している病院である。
父が亡くなり、その一周忌を11日後に控えた日に、くも膜下出血で倒れた母。手術前に僕が職場から病院に駆け付けた時は目を開けられなかった。しかし意識はあり、僕のことが分かり「来たのかい。」と気遣うような声をかけた母。
手術前は9割の確率で元に戻ると言われたが、手術中に想定外の出血を起こし、予定時間を大幅に超えて手術室から出てきた時は夜中で日付が変わった後だった。当然その時は昏睡状態だったが、主治医はやがて意識は回復し、状態もほぼ元に戻るだろうと言っていた。
しかし数日後のこん睡中に、今度は脳梗塞を併発し、母の脳細胞は大きなダメージを受け、それから以降、母は家族の顔も認識できない物言わぬ人となり、ベッドの上で終日過ごす人となった。
それから既に4年の月日が流れた。倒れてから1年後には、僕の住む地域の医療機関に転院させ、そこで面倒を見てもらっているが、状態は悪くなることはあっても、少しもよくはならない。家族として特に残念なのは、あんなに愛していた孫の顔さえ分からないように見えることである。僕や僕の子供が話しかけても、ほとんど反応はない。哀しいことだ。
「今日はもうクリスマスだよ。」「もうすぐ正月になるんだよ。」「雪が降っているよ。」と話しかけても分かっているのかどうかはっきりしない。時折、僕の言葉に反応して窓の方を見つめることがあるので、少しは言葉の意味を理解しているのだろうかと思ったりする。
母にとってベッドの上だけで過ごす一年はどのような月日なのだろうか。少なくともそれは母が望む生活ではないだろう。しかしそれ以外の生活を、子である僕でさえも与えることはできない。生きていること自体が価値であると、他人の命に対しては言えるのであるが、自分の母親のそれを考えると、その思いは複雑である。
思い起こせば父が死んだ5年前。父はショッピングセンターの駐車場で倒れてから、一度心臓が停止した後に、一端蘇生したが意識が戻ることはなかった。そしてその1週間後に息を引き取った。一度蘇生した時に医師から余命数日だと宣告された。ただし人工呼吸器を使えば延命は可能かもしれないと言われた。その時、母は人工呼吸器を装着しなくてもよい決断をした。僕に「いらないよね」と相談した時に、僕もまったく反対意見はなかった。子供から見ても仲のよい夫婦であった。母は、父が亡くなる数年前から病気がちの父をいつも気遣っていた。「お父さんが死ぬまで自分は先に死ねない。」というのが口癖だったが、いざその死を目前にした時のショックは計り知れないものがあったろう。その母の決断であり、それがベストの選択だと思った。そしてその選択肢は間違っていなかったと今でも確信している。
しかし今の母の状態になる際に、僕に選択権はまったくなかった。母は手術後、回復するのを前提にして鼻腔栄養で栄養補給していたが、現在のような状態となり、回復不能であることが明らかになっても、医療機関の中で鼻腔栄養を外す選択肢はない。そしてそれによって母の命が保たれていることは事実だ。しかしそれは本人が望んでいることなのかと考えると、決してそうではないと思う。
僕は面会のたびに、アイスクリームやプリンを食べさせていた。それも現在はできない状態である。母が現在の状態で「生かされている」ことを、本当の母の思いから考えると、それは決して喜びではなく、哀しみではないかと考えたりする。
医学と医療の進歩は、過去に救えなかった命を救うことを可能にし、そのことで幸福を感じている人々がたくさんいるはずだ。しかし同時にそのことは、我々に生きるとは、人の命とは、人の幸福とは何かという新たな命題を投げかけている。
繰り返しになるが、他人であれば、その命が続く限り、どのような状態であっても、生きていることそのものが尊いことであるとして関わることができる。そうしなければならない。
しかし身内である母の身の上に起こった事として、その状態を考えると、果たして人間は心臓を動かし続けているだけで、本当に幸福なのだろうかと疑問に思ってしまう。判断力の衰えていない本当の母は、その状態で生かされていることを恨んでいるのではないかと自責の念にかられることがある。
病院のベッドに横たわる母親に、今の僕がしてやれることはほとんどない。ただ病室を訪れ、短い時間話しかけ、反応がない母の表情を見ながら「それじゃあまた来るね」と帰るだけである。
大晦日も、元日もなく、母はベッドの上で時間を過ぎるのをひたすら待つだけである。
その姿を見ているだけしかできない自分は、この世に生んでもらった恩返しもできない罪深い存在である。これが人の「業(ごう)」と呼ぶべきものかどうか、僕は知らない。
しかし一つだけそこにある真実は、両親は僕にあらゆるものを与えてくれ、いつも僕を守ってくれたが、僕は両親から与えられるだけで、何一つ返せないまま、両親の死を看取って行くだろうということだ。
父と母は、いつか僕を許してくれるのだろうか・・・。
↓ブログ書籍化本、第4刷増刷決定。待望の続編は2012年1月25日発刊。下のボタンをプチっと押して、このブログと共に応援お願いします。
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介護・福祉情報掲示板(表板)
今、僕には仕事を終えた夜に通う場所がある。それは母が入院している病院である。
父が亡くなり、その一周忌を11日後に控えた日に、くも膜下出血で倒れた母。手術前に僕が職場から病院に駆け付けた時は目を開けられなかった。しかし意識はあり、僕のことが分かり「来たのかい。」と気遣うような声をかけた母。
手術前は9割の確率で元に戻ると言われたが、手術中に想定外の出血を起こし、予定時間を大幅に超えて手術室から出てきた時は夜中で日付が変わった後だった。当然その時は昏睡状態だったが、主治医はやがて意識は回復し、状態もほぼ元に戻るだろうと言っていた。
しかし数日後のこん睡中に、今度は脳梗塞を併発し、母の脳細胞は大きなダメージを受け、それから以降、母は家族の顔も認識できない物言わぬ人となり、ベッドの上で終日過ごす人となった。
それから既に4年の月日が流れた。倒れてから1年後には、僕の住む地域の医療機関に転院させ、そこで面倒を見てもらっているが、状態は悪くなることはあっても、少しもよくはならない。家族として特に残念なのは、あんなに愛していた孫の顔さえ分からないように見えることである。僕や僕の子供が話しかけても、ほとんど反応はない。哀しいことだ。
「今日はもうクリスマスだよ。」「もうすぐ正月になるんだよ。」「雪が降っているよ。」と話しかけても分かっているのかどうかはっきりしない。時折、僕の言葉に反応して窓の方を見つめることがあるので、少しは言葉の意味を理解しているのだろうかと思ったりする。
母にとってベッドの上だけで過ごす一年はどのような月日なのだろうか。少なくともそれは母が望む生活ではないだろう。しかしそれ以外の生活を、子である僕でさえも与えることはできない。生きていること自体が価値であると、他人の命に対しては言えるのであるが、自分の母親のそれを考えると、その思いは複雑である。
思い起こせば父が死んだ5年前。父はショッピングセンターの駐車場で倒れてから、一度心臓が停止した後に、一端蘇生したが意識が戻ることはなかった。そしてその1週間後に息を引き取った。一度蘇生した時に医師から余命数日だと宣告された。ただし人工呼吸器を使えば延命は可能かもしれないと言われた。その時、母は人工呼吸器を装着しなくてもよい決断をした。僕に「いらないよね」と相談した時に、僕もまったく反対意見はなかった。子供から見ても仲のよい夫婦であった。母は、父が亡くなる数年前から病気がちの父をいつも気遣っていた。「お父さんが死ぬまで自分は先に死ねない。」というのが口癖だったが、いざその死を目前にした時のショックは計り知れないものがあったろう。その母の決断であり、それがベストの選択だと思った。そしてその選択肢は間違っていなかったと今でも確信している。
しかし今の母の状態になる際に、僕に選択権はまったくなかった。母は手術後、回復するのを前提にして鼻腔栄養で栄養補給していたが、現在のような状態となり、回復不能であることが明らかになっても、医療機関の中で鼻腔栄養を外す選択肢はない。そしてそれによって母の命が保たれていることは事実だ。しかしそれは本人が望んでいることなのかと考えると、決してそうではないと思う。
僕は面会のたびに、アイスクリームやプリンを食べさせていた。それも現在はできない状態である。母が現在の状態で「生かされている」ことを、本当の母の思いから考えると、それは決して喜びではなく、哀しみではないかと考えたりする。
医学と医療の進歩は、過去に救えなかった命を救うことを可能にし、そのことで幸福を感じている人々がたくさんいるはずだ。しかし同時にそのことは、我々に生きるとは、人の命とは、人の幸福とは何かという新たな命題を投げかけている。
繰り返しになるが、他人であれば、その命が続く限り、どのような状態であっても、生きていることそのものが尊いことであるとして関わることができる。そうしなければならない。
しかし身内である母の身の上に起こった事として、その状態を考えると、果たして人間は心臓を動かし続けているだけで、本当に幸福なのだろうかと疑問に思ってしまう。判断力の衰えていない本当の母は、その状態で生かされていることを恨んでいるのではないかと自責の念にかられることがある。
病院のベッドに横たわる母親に、今の僕がしてやれることはほとんどない。ただ病室を訪れ、短い時間話しかけ、反応がない母の表情を見ながら「それじゃあまた来るね」と帰るだけである。
大晦日も、元日もなく、母はベッドの上で時間を過ぎるのをひたすら待つだけである。
その姿を見ているだけしかできない自分は、この世に生んでもらった恩返しもできない罪深い存在である。これが人の「業(ごう)」と呼ぶべきものかどうか、僕は知らない。
しかし一つだけそこにある真実は、両親は僕にあらゆるものを与えてくれ、いつも僕を守ってくれたが、僕は両親から与えられるだけで、何一つ返せないまま、両親の死を看取って行くだろうということだ。
父と母は、いつか僕を許してくれるのだろうか・・・。
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