2011年は日本人が忘れることのできない年になった。

3月11日の震災で3万人近い人々の命が一瞬にして失われた。その日1日を最後に、明日という時間を突然奪われた人々がそれだけいるという事実に直面して、残された我々は何をすべきなのか。それは命の尊さをもう一度問い直し、儚い(はかない)がゆえに尊い命というものをもう一度見つめ直すことではないかと思う。

失われた一人ひとりの命の重さを決して忘れず、それらの人々が生まれ変わっても再び生まれたい日本という国を作ることではないかと思う。

だから僕が今年を代表する漢字を選ぶとすれば「命」以外には考えられない。そして来年一月に発刊するこのブログの書籍化本の続編『人を語らずして介護を語るな2』の第一章書き下ろしは『生きる希望』というテーマの文章を書いている。

しかし相変わらず巷では、命を軽く扱う事件や事故が繰り返されている。日本人の心の中で隣人を愛し、人を愛おしむという心が薄れているように感じるのは僕だけだろうか。

人は一人ぼっちでは生きていけない。だから支え合うべき仲間である人間すべてを愛し敬う必要がある。家族や親類、知人、友人だけではなく、見ず知らずの通行人にさえ人としての仲間意識を持つ心を育てる国であってほしい。

道端で苦しがっている人の傍らを、見て見ぬふりして通り過ぎる人がいることが当然の国にしてはいけない。ましてやそれらの人々を足蹴にする人が存在する国であってはならないのである。

戦後の高度経済成長期に、この国は「向こう三軒両隣」の地域社会を崩壊させ、地域の人間関係を失ってしまった。他人への干渉がおせっかいとされる社会で子供は成長せざるを得なくなった。日本の伝統社会では、他人のおせっかいをおおらかに受け入れ、そのことで人の情けを知り、人の道を学んだ。

現在の子供たちは、コンクリートの壁の中で、家族という極めて限定された集団の中だけで身を守り、他人はすべて気を許せない危険因子と教えられて成長する。そのような環境で豊かな感情や知性や情緒が育まれるわけがない。他人のおせっかいを拒否することを当然とする魂は、他人の存在さえ簡単に否定してしまうだろう。それは隣人愛を徹底的に排除する社会に他ならない。

そういう場所で心の豊かさは得られるのだろうか?心の豊かさはお金では買えない。一生使いきれないお金を持っていたとしても、心が豊かでない限り人間は不幸だ。

社会福祉は社会の不幸の芽を摘み、すべての人類がつましくとも人として敬われ、個人として誇りを持てる社会を作ることを目的としているのではないだろうか。

そうした社会の実現は、経済力の向上や世帯や個人の所得増加とは関係ないとは言えないが、少なくともそれだけでは豊かさは得られない。物質が豊かであっても、命を粗末にする社会、他人の存在を疎ましく思う社会に本当の意味での豊かさは存在しない。

たくさんの人の命が一瞬にして失われた国の国民として、誰よりも深く命の儚さと尊さを考えたい。そして全ての命を大切に思いたい。

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