「男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格はない。」という言葉は、レイモンド・チャンドラーの小説に出てくるセリフであり、日本では高倉健主演の映画「野生の証明」のキャッチコピーとして有名になった言葉だ。
小説の中のその意味と、日本の映画の中の言葉の意味はまったく違っている。だからこのセリフは、それぞれの置かれた立場で、様々な意味で使ってよい「名台詞」だと思う。そういう意味で今日は僕なりの「強さ」と「優しさ」に対する思いを書く。
「生きていく強さ」ってなんだろう。それは少なくとも喧嘩に強いことでもないし、粗暴であるという意味ではないはずだ。
それは「自己、おのれ」というものをしっかり持っていて、人の言葉に揺れない信念を持って生きることではないかと思う。ただしそれは自分勝手とは少し違う。人間社会で生きていくのが人の一生なのだから、他人の事をまったく無視したゴーイングマイウエイはあり得ないからである。どこかに人に対する愛情を持ちながら、揺れることのない信念を持って歩み続けることが「生きていく強さ」ではないのだろうか。
しかしその信念とは強固であってもよいが、頑固であり過ぎてはならない。世の求めは時代と共に変わるように、自らの価値観も自己成長と共に変わっていくものだ。さっきまで気づいていなかったことが見えてくることによって、自らの信念も変わることがあるのだ。
つまり信念とは決して揺らがないものではなく、柔軟に変化(成長)していくことだと思う。生きてゆく強さとは、この柔軟性に関係してくるもので、頑固過ぎるあまりに自分が気付いている「新しい真実」さえも否定してしまうことによって、自己崩壊が起こるのだと考えている。心のキャパシティーというのは、この部分の柔軟性によって左右されるものではないのか?
では「優しさ」とは何か?それは他人の行為を全て許容することではないはずだ。
優しい人と、注意しない人はイコールではない。優しい事を「甘い」ことと勘違いしている人はいないだろうか。
僕は介護福祉士の養成校の非常勤講師でもあり、ヘルパー養成講座の授業も担当しているが、生徒に対する愛情は持っているつもりだ。そして自分なりの「優しさ」を表現しているつもりだ。
しかし現在の介護福祉士や訪問介護員2級という資格は、授業を聞いて養成課程を卒業さえすれば得られる資格であることを忘れてはならない。試験を受けて合格しなくとも得られる仕事だから、それゆえに授業内容はしっかり聞いて理解すべきと思っている。この部分で僕は決して甘くない。寝ている生徒は起こして注意する。それは寝ているのに気づいても、見て見ぬふりをするよりずっと優しい行為だと思っている。なぜなら、その方が本人のためになるからだ。
そして注意しても同じことを繰り返す場合は、授業をきちんと受けている生徒にも迷惑なので、僕の授業を受ける権利を失うとして強制的に退室させる。そのことにより事の重大性に気がついて、態度を改めようとした方が、社会に出てから退場勧告を受けるよりも「よりまし」だと思うからだ。退室では授業を受ける権利を奪うのではないかというが、寝ていて授業を聞く権利もくそもないものだ。このような場合は、まず間違いに気がつくことが優先されるべき課題である。それに気がつかないなら教室に座る権利はない。何と僕は優しい事か・・・。
表の掲示板もしかり。甘えられる掲示板は他にいくらでもあるから、甘えたいのなら他に行け。
その替りそういう場所は、「〜とどこかで聞いたのですが」「行政職員がそう言っていた」「私の職場ではこうだ」といった法的根拠のないデタラメ情報が飛び交っている。叱られるのが嫌で、甘えるのが好きなら、そういう場所でナアナアの関係で不確実な情報を得ながら、錯綜するそれらの情報に振り回されていけばよい。これも自己責任だ。
表の掲示板について言えばアクセス数など増えなくて構わない。それはステータスにはならないからだ。ネット掲示板のクオリティとは、そこで発信される情報の量ではなく、情報の質によって決まるものだ。
そういう意味もあって僕の管理する掲示板は決して甘くはない。
勉強する気がない人、ネットで情報交換すべき事と直接関係者で協議すべきことの区別がつかない人、同じことを繰り返し確認しようとする自信のない人、にとっては敷居が高いだろう。利用したくないと再アクセスしない人もいるだろう。しかしこの敷居の高さがスキルの向上に繋がるものだと信じて運営管理している。それが間違いと思うなら繋げるな。ネットは自らの意思で選択して繋げられるものであり、不快な場所にわざわざ繋げて文句を言うのは筋違いである。
その場所は、成長動機のある、まともな関係者だけが集えば良い場所だ。そこでは厳しい優しさでもって対応させていただく。
敷居が低くて甘えられる場所というのは、こと勉強やスキルアップを動機とする場所としては、決して優しいとは言えない。それはそこが和気あいあいとしておればよいというだけで、本当に必要とされる知識を得られる場所にはなり得ないからだ。
そういう場所は、甘くてフレンドリーであるとしても、とても冷たい場所だと思う。なぜならそこは他人が自己成長しなくとも、どうでも良いと甘やかす場所だからだ。
勘違いしてはいけないことは、どんな質問にも丁寧に回答することは決して優しくないということだ。
例えば職員配置数など運営基準を読めば小学生でもわかるのに、そういう質問をする状態を恥ずべきであると指摘せず、何でもかんでも丁寧に(実際にはそれらのレスポンスは、基準をコピペしただけで、見識もなにもない)書き込むことは決して優しくはない。それは介護サービスの専門家であるべき関係者を甘やかして駄目にするだけの結果しか生まない。それはレスポンスをつける者の単なる自慰行為だ。
安易な質問を繰り返す人間や、その程度の質問に得意げに答えて自己満足している人間にとってそこは居心地が良いだろうが、その程度の見識しか持たない人間に自分の暮らしの質を委ねるサービスプランを作ってもらったり、実際に暮らしと命を守るケアを提供してもらうことが良い事なのかどうかと考えれば分かる問題だ。素人と同レベルの人間は業界から立ち去れ。そういう人間しか育てない場所の運営管理者は、サービスの質が云々と偉そうなことを言うな。お前が作っている質が現実にその状態を作りだしているのだ。
どちらの場所で、どういう情報を得るのかは、個人の選択権だ。甘やかされていつまでも自己成長のない、スキルの低い人でいたいなら、あそこや、あそこの某掲示板でお茶を濁しな。僕の管理する場所に、わざわざ入ってくるな。誰が何と言おうと僕の管理する掲示板のコンセプトや、そこでの僕の姿勢は変わることはないのだ。
むしろ敷居はより高く、間口はより狭くしてもよいと思っている。その敷居を乗り越えて、間口を力いっぱい広げようとして、その努力を続ける人にとっては有効な、必要な場所にし続ける覚悟はある。こうした厳しい優しさがない限り、福祉や介護の現場職員のスキルは高まらない。
男の、専門家の優しさを勘違いしちゃあいけない。
↓ブログ書籍化本、おかげさまで好評発売中。2012年1月25日続編発刊決定!!下のボタンをプチっと押して、このブログと共に応援お願いします。


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介護・福祉情報掲示板(表板)
小説の中のその意味と、日本の映画の中の言葉の意味はまったく違っている。だからこのセリフは、それぞれの置かれた立場で、様々な意味で使ってよい「名台詞」だと思う。そういう意味で今日は僕なりの「強さ」と「優しさ」に対する思いを書く。
「生きていく強さ」ってなんだろう。それは少なくとも喧嘩に強いことでもないし、粗暴であるという意味ではないはずだ。
それは「自己、おのれ」というものをしっかり持っていて、人の言葉に揺れない信念を持って生きることではないかと思う。ただしそれは自分勝手とは少し違う。人間社会で生きていくのが人の一生なのだから、他人の事をまったく無視したゴーイングマイウエイはあり得ないからである。どこかに人に対する愛情を持ちながら、揺れることのない信念を持って歩み続けることが「生きていく強さ」ではないのだろうか。
しかしその信念とは強固であってもよいが、頑固であり過ぎてはならない。世の求めは時代と共に変わるように、自らの価値観も自己成長と共に変わっていくものだ。さっきまで気づいていなかったことが見えてくることによって、自らの信念も変わることがあるのだ。
つまり信念とは決して揺らがないものではなく、柔軟に変化(成長)していくことだと思う。生きてゆく強さとは、この柔軟性に関係してくるもので、頑固過ぎるあまりに自分が気付いている「新しい真実」さえも否定してしまうことによって、自己崩壊が起こるのだと考えている。心のキャパシティーというのは、この部分の柔軟性によって左右されるものではないのか?
では「優しさ」とは何か?それは他人の行為を全て許容することではないはずだ。
優しい人と、注意しない人はイコールではない。優しい事を「甘い」ことと勘違いしている人はいないだろうか。
僕は介護福祉士の養成校の非常勤講師でもあり、ヘルパー養成講座の授業も担当しているが、生徒に対する愛情は持っているつもりだ。そして自分なりの「優しさ」を表現しているつもりだ。
しかし現在の介護福祉士や訪問介護員2級という資格は、授業を聞いて養成課程を卒業さえすれば得られる資格であることを忘れてはならない。試験を受けて合格しなくとも得られる仕事だから、それゆえに授業内容はしっかり聞いて理解すべきと思っている。この部分で僕は決して甘くない。寝ている生徒は起こして注意する。それは寝ているのに気づいても、見て見ぬふりをするよりずっと優しい行為だと思っている。なぜなら、その方が本人のためになるからだ。
そして注意しても同じことを繰り返す場合は、授業をきちんと受けている生徒にも迷惑なので、僕の授業を受ける権利を失うとして強制的に退室させる。そのことにより事の重大性に気がついて、態度を改めようとした方が、社会に出てから退場勧告を受けるよりも「よりまし」だと思うからだ。退室では授業を受ける権利を奪うのではないかというが、寝ていて授業を聞く権利もくそもないものだ。このような場合は、まず間違いに気がつくことが優先されるべき課題である。それに気がつかないなら教室に座る権利はない。何と僕は優しい事か・・・。
表の掲示板もしかり。甘えられる掲示板は他にいくらでもあるから、甘えたいのなら他に行け。
その替りそういう場所は、「〜とどこかで聞いたのですが」「行政職員がそう言っていた」「私の職場ではこうだ」といった法的根拠のないデタラメ情報が飛び交っている。叱られるのが嫌で、甘えるのが好きなら、そういう場所でナアナアの関係で不確実な情報を得ながら、錯綜するそれらの情報に振り回されていけばよい。これも自己責任だ。
表の掲示板について言えばアクセス数など増えなくて構わない。それはステータスにはならないからだ。ネット掲示板のクオリティとは、そこで発信される情報の量ではなく、情報の質によって決まるものだ。
そういう意味もあって僕の管理する掲示板は決して甘くはない。
勉強する気がない人、ネットで情報交換すべき事と直接関係者で協議すべきことの区別がつかない人、同じことを繰り返し確認しようとする自信のない人、にとっては敷居が高いだろう。利用したくないと再アクセスしない人もいるだろう。しかしこの敷居の高さがスキルの向上に繋がるものだと信じて運営管理している。それが間違いと思うなら繋げるな。ネットは自らの意思で選択して繋げられるものであり、不快な場所にわざわざ繋げて文句を言うのは筋違いである。
その場所は、成長動機のある、まともな関係者だけが集えば良い場所だ。そこでは厳しい優しさでもって対応させていただく。
敷居が低くて甘えられる場所というのは、こと勉強やスキルアップを動機とする場所としては、決して優しいとは言えない。それはそこが和気あいあいとしておればよいというだけで、本当に必要とされる知識を得られる場所にはなり得ないからだ。
そういう場所は、甘くてフレンドリーであるとしても、とても冷たい場所だと思う。なぜならそこは他人が自己成長しなくとも、どうでも良いと甘やかす場所だからだ。
勘違いしてはいけないことは、どんな質問にも丁寧に回答することは決して優しくないということだ。
例えば職員配置数など運営基準を読めば小学生でもわかるのに、そういう質問をする状態を恥ずべきであると指摘せず、何でもかんでも丁寧に(実際にはそれらのレスポンスは、基準をコピペしただけで、見識もなにもない)書き込むことは決して優しくはない。それは介護サービスの専門家であるべき関係者を甘やかして駄目にするだけの結果しか生まない。それはレスポンスをつける者の単なる自慰行為だ。
安易な質問を繰り返す人間や、その程度の質問に得意げに答えて自己満足している人間にとってそこは居心地が良いだろうが、その程度の見識しか持たない人間に自分の暮らしの質を委ねるサービスプランを作ってもらったり、実際に暮らしと命を守るケアを提供してもらうことが良い事なのかどうかと考えれば分かる問題だ。素人と同レベルの人間は業界から立ち去れ。そういう人間しか育てない場所の運営管理者は、サービスの質が云々と偉そうなことを言うな。お前が作っている質が現実にその状態を作りだしているのだ。
どちらの場所で、どういう情報を得るのかは、個人の選択権だ。甘やかされていつまでも自己成長のない、スキルの低い人でいたいなら、あそこや、あそこの某掲示板でお茶を濁しな。僕の管理する場所に、わざわざ入ってくるな。誰が何と言おうと僕の管理する掲示板のコンセプトや、そこでの僕の姿勢は変わることはないのだ。
むしろ敷居はより高く、間口はより狭くしてもよいと思っている。その敷居を乗り越えて、間口を力いっぱい広げようとして、その努力を続ける人にとっては有効な、必要な場所にし続ける覚悟はある。こうした厳しい優しさがない限り、福祉や介護の現場職員のスキルは高まらない。
男の、専門家の優しさを勘違いしちゃあいけない。
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介護・福祉情報掲示板(表板)


感動の完結編。

「信念」と「頑固」の違いや、「忍耐」と「我慢」の違いなどについてもこの漫画の中ででてきます。
「我慢」とは、その場をしのぐため
「忍耐」とは、将来の成長のため
だから、「忍耐力」という言葉はあるが、「我慢力」という言葉はない。
「頑固」とは、今の自分を守るため
「信念」とは、見据えている将来の自分になるため
だから、頑固者は人の意見を聴かない。信念のある人は、人の意見も積極的に取り入れて、信念に向かって成長していく。
手元にないので正確ではありませんが、こんな意味合いだったと思います。オススメです。