昨年度から介護福祉士養成校での授業を受け持っている。

僕が担当するのは「認知症の理解」であり、1年時に15コマ(1コマは90分)、2年時にも同じく15コマ、計30コマである。

そのほかに社会福祉援助技術実習に関連して「相談援助の基礎知識」を4コマ担当している。

そこで考えることは当初「どんな授業をするか」ということであった。つまり自分の担当する授業の内容をいかに理解させるかということが自分にとっての一番の課題だった。

昨年度は1年と2年の両方の授業を担当していると言っても、昨年担当した2年生は、1年生のときはまったく関わりがなく、2年生の1年間だけの付き合いだったので、「認知症の理解」についても後半の半分しか担当していないし、入学時点からの成長の度合いを確認する術はなかった。それゆえに毎回の授業の中でいかに講義内容を「知識」として吸収させるかということを考えるのが精いっぱいだった。

しかし来春3月に卒業する現在の2年生は、新入生として専門学校に入学してきた1年時から関わり、2年間を通して授業を行っており、彼らの様子を観察しているのでその変化がよくみてとれる。彼らが現場に出た時、認知症ケアに対する考え方に問題があるとしたら、それは僕の全面的な責任だろう。近隣施設やサービス事業所の方々は是非直接僕に苦情を挙げてほしい。

授業を受け持ってから2年目の授業もすべて終えた今、僕の興味は、僕が講義する授業内容の理解度にとどまらず、学生がどんな成長を遂げているのかということに関心が向くようになった。

そのため僕自身がどんな指導教官であるべきか、ということを考えることが多くなってきた。

授業内容の理解も大事だが、これから学校を卒業する学生たちが、どのような介護福祉士として巣立っていくのかという部分を強く考えるようになったのである。これは昨年2年時の授業のみを担当した卒業生には考えなかったことである。そもそもそれは1教科を担当する僕の役割ではなく、担任教師の役割と考えていたからだ。

しかし一つの教科と、一つの特別授業にしか関わっていないと言っても、彼らが2年間の学びの時を過ごす専門学校の教員であるという立場は、非常勤という立場を理由にして責任を逃れたり、軽くしたりすることは許されないだろう。特に社会に巣立っていったとき、僕が教えた学生というある意味の「烙印」を背負う学生に対して、社会人としてふさわしいスキルを伝えていくことも僕の責任の一つと思うようになった。

そのための指導も随時心がけてきたが、心がまだまだ未熟な学生には「丁寧に優しく」諭しても勘違いしてしまう場合がある。注意を受けているということを理解出来ない学生もいる。そのため時には強く叱るという形で指導をせねばならない。

しかし僕が専門学校で学生を注意することに関して言えば、それは極めて割の悪い事である。担任でもなく、一つの教科の非常勤講師でしかないことを考えれば、別に注意をしなくとも、叱らなくとも、あたりさわりなく学生と付き合って、自分の担当教科の知識だけを最低限のレベルに持っていけばよい話で、別に「人の道」を説く必要もないし、将来介護の現場にその人がそのままの考え方で入って困ったって知ったことじゃない、という考えも成り立つ。

叱らず優しい教師として自分の存在を規定すれば、そこそこ人気があって嫌われない「虚像」を創ることは簡単である。だがそれは学生自身のためにはならないだろう。

特に僕は授業時間と休み時間のメリハリをきちんとつけるように厳しく指導している。教師が教壇に立つまで廊下でしゃべり続け、教師が生徒が席に着くのを待っているなんていうのはおかしい。僕の授業では時間になったら生徒が席について待つように指導している。時にはそのことを強く厳しく注意する。これは社会人となった後にも注意すべきスイッチ切り替えの訓練でもある。

社会に巣立った際には、プライベートな時間と、職場でスタッフとして働く時間のメリハリをつけることが大事だからだ。介護サービスに従事する人は特にそうだ。プライベートの喜怒哀楽を介護サービス業務の中に持ち込めば、そのデメリットはすべて利用者が受けることになる。介護サービス提供者の感情の揺れが、すべて利用者にぶつけられてしまうのでは、介護サービスの品質保持などあり得なくなってしまう。

日常生活の疲れや悩みを業務の中に持ち込まれてはかなわない。プライベートでなにがあっても一歩職場に入れば、プロとして業務に当たるべきであり、逆に言えばプライベートに「職業」を引きずらないためにもそのメリハリや区分は必要なのである。日常は仕事を忘れ、大いに人生を楽しんで、職場ではプロとして倫理観と理念を持って利用者に対峙するのが介護福祉士である。そのためにも授業と休み時間のメリハリをつける訓練は重要だ。

しかしどうも他の先生はこのことに関する厳しさに欠けているように思う。

先日も「今日はどうしたことか全員席について待っていました。」という教員がいたが、それは僕が強く注意したその日のことである。そうするのが当たり前と考える教師が少ないから、学生がだらけて、スイッチのオン、オフがスムースに切り替えられない人間を、介護の現場に送り出してしまうのだ。ここは大いに反省すべきである。

だがなかなか注意を素直に受け入れられない学生がいることも事実だ。残念ながら僕が関わった学生でも、その態度が直らないまま授業を終えてしまった者もいる。そういう学生は本当に社会人としてきちんとした仕事をこなすプロになることができるのだろうか?大いに心配である。

授業中に寝ている学生を起こすのは当たり前だし、そのことで注意されたら「起こしてくれてありがとう」「寝ないように注意されるのは当然だ」と考えるのが普通の感覚である。にもかかわらず「授業中に寝ないで、きちんとした姿勢で授業を聞け、それが嫌なら単位はやるから教室から出ていけ」と注意されても、ふてくされてだらしない姿勢をあらためない学生に未来はない。

そしてその姿ほど醜いものはない。そういう意味では昨年から受け持っている現在の2年生に対しては、最初の1年生の時の、僕の授業態姿勢に厳しさに欠けるものがあったと反省している。

現在の介護福祉士資格は養成校を卒業さえすれば資格付与される。国家試験が課せられるのは2015年以降の卒業生からである。そうであるがゆえに養成校の学習はより重要である。卒業した瞬間に、社会人として福祉援助や介護サービスの現場で即戦力となる「人間力」をつけねばならない。

国家試験を受けない介護福祉士が現場で評価を下げれば、いずれ介護福祉士の資格は「国家試験介護福祉士」と「無試験介護福祉士」とに区分して評価され、両者の差別化が進行しないとも限らない。だから現在、国家試験を受けずに資格付与されている介護福祉士は、この先試験を受けて資格を得る介護福祉士より、より多くの努力をしてスキルを上げていかねばならない宿命を背負っている。

しかし実情は、すべての卒業生がそうした能力を持つわけではなく、未熟な状態のまま卒業し巣立っていく場合がある。そのことを憂い、その反省に立ち、その状態をなくすために、一非常勤講師という立場ではあるが、僕は時に注意する人になるし、そのことで学生から煙たがられることは恐れない。そんなことを考えるようになった。

先月からは、今年4月に入学した1年生の授業が始まっている。彼らに対しては、今まで以上の思いと厳しさで授業に臨んでいる。

※昨日まで不具合が生じていたライブドアのアクセス解析がやっと正常化したようですから、週間アクセスグラフを再表示します。

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