この国の社会福祉の歴史を振り返ると、福祉制度や福祉援助を利用する国民の側の意識の中には、常にスティグマが存在していた。

スティグマとは「他者との違いを、ことさら貶(おとし)めつつ、指をさす行為」として存在し、それは「他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象」であり「烙印(らくいん)」と呼ばれることもある。

我が国では、福祉制度やそのサービスを利用すること自体を「おかみの施し」と捉え、サービスを受けること自体を「負い目」に感じ、同時にサービスを受ける他人を「負い目を持って当然の存在」とみる歴史があった。そしてそのスティグマは依然として消滅していない。

特に高齢者福祉においては、年をとること自体を「社会の負い目」とみる「問題老人史観」が存在し、それが新たなスティグマを生みだし、社会の人々の心の中に根強くそれを蔓延させる要因ともなっている。

それは同時に、税金による措置を嫌い、福祉を拒否する国民性を生みだす元凶でもあった。

2000年に施行された介護保険制度は、社会保障構造改革と言われ、高齢者が権利として介護サービスを利用すると言うキャッチフレーズが唱えられたことで、福祉が国民のより身近な存在になり得る可能性を含んでいた。そのために福祉を拒否する潜在的国民性が緩和されるという期待を持つことができるものであった。これによりスティグマが消滅されるのではないかという期待も持てた。

特に制度施行時の国策が「サービス利用促進」であったことから、さらにこの期待は高まった。

しかし保険給付による介護サービスが社会に浸透しかけた途端に、国はその方針を180度変え、給付抑制に走りだした。それは時には「ケアプラン適正化事業」「介護サービス適正化事業」と称され、あたかも保険給付サービスを計画する人間と、使う人間が両者とも罪人であるかのようなスティグマをあらたに作りだした。

訪問介護の生活援助(家事援助)制限などは、その典型である。一部の不正を全体の悪として制限を強化し、その制限の枠から少しでもはみ出したものを不正と決めつけ、このことを適正化と考える人々は、自らを聖人君子で、神のごとく間違いのない高潔な人物と勘違いしているのではないか。

我が国は先進国と呼ばれている割には民度が低く、成熟していない社会と言ってもよいだろう。福祉に付随するスティグマを生みだす意識レベルは、江戸期のそれと変わりないことは役人の「制限に酔う醜い姿」を見れば明らかだ。

法律は本来、人の生活を安全に豊かにすべきものなのに、暮らしを不便にして不幸をつくり出す「運用法令」が百出しているのが、この国の役人が作った介護保険制度である。我々社会福祉援助者は法律や法令を守りながらも、悪しきは捨て、より良い法律に変えてゆくというアクションを起こさねばならない。役人の作文では国民の暮らしを守ることはできないということを強く意識すべきである。

介護保険制度改正議論も、馬鹿な論議が繰り返され、相変わらず財政論から一歩も踏み出すことなく、何も決まらない、何も進まないでいる。そのため結局は厚生労働省老健局という一部局で作文されたものが、そのまま新制度になる。その責任の一端は、介護給付費分科会の委員が真に必要な制度の構造を示さないことによる。

人間にとっての「安全と安心と安定」が保障されない社会は未成熟な社会である。現代社会における国家とは、本来それを実現するために国民から負託された組織ではないのか。国家がその責任を果たさなくなった時、財源論など唱えている暇はなく、国家という組織そのものが崩壊しかねない。

福祉に付着するスティグマを消し去り、全ての国民に「安全と安心と安定」を与え、暮らしを守ることを、国家が保障するという意識が育てば、それ自体が社会のセーフティネットである。経済活動だけでは救済し得ない人間の精神構造をも内包したセーフティネットは、社会福祉という領域でしか創造し得ないものである。

政治理念とは、国家を形成する基盤であるはずの「国民の暮らし」そのものを守るためにあらねばならないはずだ。そのことが忘れ去られてはいないのだろうか。何を守るべきかを考える順序を間違ってはいないのだろうか。

そしてそのことに何の意義も唱えない有識者と呼ばれる「学者連中」は、単なる国の機関に救う寄生虫にしか過ぎず、「御用聞き学者」と呼ぶほどの価値もない。

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