Oさんには身寄りがない。

いや身寄りがないというのは正確ではない。Oさんの姉妹の中で一番上のお姉さん(故人)の娘さん(つまり姪にあたる)とは連絡が取れていた。しかし遠方で、ほとんど逢ったことさえないという人であり、身元を引き受けてくれるような関係ではない。

そのOさんが先週息を引き取られた。今日はその供養の意味を込めて、Oさんの事を書こうと思う。そうしないと彼女を思いだしてくれる人もおらず、Oさんの生きてきた証がどこにも残らないのではないかと考えるからだ。せめて我々の施設に入所し、息を引き取るまでの思い出を残しておくことが、Oさんに対する我々の最後の責任ではないかと思う。

Oさんは、多発性脳梗塞で医療機関に入院した後、症状固定し他市の生活保護を受給しながら介護療養型医療施設に入っておられた。しかしそこで職員や他の利用者とトラブルを起こし、退院勧告を受け行き場をなくしていた。

その時、保護課のケースワーカーを通じて相談を受けたのが、当時相談員であった僕である。性格にきついところのある人で、他者となかなか融合できないことから、病院や施設生活では、今後も人間関係のトラブルが予測され、なおかつ身元を引き受けてくれる人がいないということで、役所の担当ワーカーも行き先探しに苦労され、当施設への相談に繋がったケースである。

勿論、身元引受人がいないことも、性格的な問題も入所を拒む理由にはならないし、行き場を失っては大変なので、当施設入所はすんなり決まった。その際に保護担当者からは、今後も生活保護の対象になるし、死亡退所の際などは行政としてもできる限りの協力を行うことを約束してくれた。

いよいよOさんが当園に入所するに当たって、もともと住んでおられた市営住宅の部屋からは退居する必要があった。身体状況から考えて、今後自宅で一人暮らしをする可能性はないと考えられていた事と、その市営住宅自体が老朽化して、取り壊しも予定されていたからである。

しかもOさんはひとり暮らしをしていたため、脳梗塞で倒れて入院した際に、必要最低限の身の回り品を保護担当ワーカーが自宅から持ってきただけで、衣類その他は元の住居にそのままになっており、それも整理して退居する必要があった。そのため当施設入所前に、本人を連れて、僕と施設職員、保護課ワーカーで自宅を訪れ、必要なものを持ってきて、いらないものはゴミ処理業者に引き取ってもらうことにした。

市営住宅はエレベーターもない古い4階建てで、その3階がOさんの部屋であった。歩行障害のあるOさんは階段を昇れない。そのため僕が彼女をおぶって階段を昇り、部屋のかぎを開けてもらった。しかしそこには唖然とする光景が広がっていた。内部は雑然としてゴミが散乱し、異臭も漂っていた。腐った食品などもそのまま放置されていた。想像するに、入院直前はほとんど身の回りのことができなくなっていたのではないだろうか。

正直、靴を脱いで部屋に入れる状態ではなく、保護課の担当者と靴を履いたまま入室し、身に回りの必要品を探したが、使えるようなものはなかった。Oさんは自分の衣類を持っていきたいということで、一緒に部屋に入って衣装ケースなどの場所を教えてくれたが、そこにある衣類も、カビが付着していたり、とても使える状態ではなく、持ち帰ることを諦めてもらった。そして位牌などを持ち帰り、そのほかのものはほとんど廃棄処分することに同意してもらった。(後日、僕と保護課の担当者と、ゴミ処理業者ですべて廃棄した。)

ところでこの際に、部屋から貯金通帳が見つかり、そこに予想外の預金が積まれていることが分かった。おそらく長年、保護費を節約して貯めた貯金と思えた。このことにより保護費の返還という事態にはならなかったが、生活扶助と介護扶助は停止され、医療扶助だけを残すということになった。いわゆる医療単給であるが、これは施設入所の際に、今後も保護課が継続して責任を持つことを約束したという意味があった。

療養型医療施設では、車椅子を日常的に使っていたOさんであるが、当施設入所後、歩行状態が改善し歩行器を使用して自力移動できるようになり、ADLの自立度はアップした。しかしきつい性格は相変わらずで、職員や他の利用者への暴言や攻撃的行為が見られた。歩行器をわざと車椅子利用者にぶつける行為も頻回に見られた。そのため今記録を整理してみると、彼女専用の「対応表」というトラブルの原因や対処法を検討した膨大な記録が残されている。

彼女のこの「きつさ」がどこに起因しているのか、その生い立ちを調べても我々にはよくわからない。おそらく生まれ育ち、年齢を重ねる途上で、Oさん自身にしかわからない様々な経験を経て、Oさんなりの自己防衛手段として、そういう生き方しかできなくなったのではないかと思う。これを施設に入所したからと言って「変える」ことは不可能である。当施設での7年間の生活を送る間に、様々な試みが行われたがすべて空しい失敗に終わり、結局我々は、他の利用者を守るという消極的で、極めて対症療法的な対応に終始してしまった感がある。しかしこのようなケースにどう対処すべきか、今もって答えを出せないでいる。対人間の関わりは、それだけ難しいということだと思うから、今後も我々は悩み考え続ける必要があるのだろう。

ただし間違えてはいけないことは、Oさんを単にトラブルメーカーとして見るのではなく、トラブルを常に起こさずにはいられないOさんとして、一人の尊厳ある人間として見つめる必要があるということだ。そして彼女がトラブルとは無縁の安らかな暮らしを送るために、我々がそこにいるという意味を見失わないことである。そういう意味から我々の採点を行うとすれば、Oさんに対して我々は常に合格点をもらう答案を書くことはできず、赤点のまま終わってしまったのかもしれない。

ここ1年ほどは加齢に伴う身体機能の衰えから、他人に対する攻撃性も減っていたOさんであるが、それで本当に「安らぎのある暮らし」を提供できたのかどうかは、我々が今も、今後も問い続けねばならない命題である。ただOさんが、当施設の暮らしには不満を感じておらず、そして施設自体には信頼を寄せてくれていた節がある。それはOさん自身の希望で、死後に自分の預金がわずかでも残っていたら、施設に寄付したいと申し出られ、公正証書を作成したということでもわかる。

そのOさんの体調がいよいよ悪化したのは先々週である。入院の検討を行ったが、主治医師から回復不能で治療の方法がなく、入院しても施設で行うのと同じ対応しかできないので、顔見知りの職員で対応してはどうかという提案があり、Oさんもそれを望んでいた為、当施設で最期まで対応することとした。この際、尿が出づらいことが苦痛に繋がっていたため、尿を出やすくする点滴を行い、呼吸苦に対しては酸素吸入を行い、24時間の見守り体制を作った。

先週初めの診察では、医師から「今晩もつか、明日までか・・。」という判断があったため、生活保護担当課にも事前に連絡をしておいた。音信可能な姪にも連絡し、葬儀一切は市(保護担当している他市)に任せたいこと、遺骨も市で処理してほしいこと、遺留金の処理を含め事務処理等もすべて施設に任せたいことの意思確認をした。その時のOさんは、不安からか頻回にナースコールを鳴らされていたが、翌日にはコールを押す体力もなくなりつつあり、そうであるがゆえに、できるだけ職員がOさんの近くに張り付いて、安楽な体位などをとることに努めた。僕も何度も訪室したが、意識はほとんどなく問いかけに応えてくれるような状況ではなかった。ただ聞こえていることを信じて「皆がここで見守っていますから」という意味のことだけを言い続けた。

Oさんが息を引き取ったのは、先週水曜の午後である。ちょうどケアワーカーが、排泄ケアを行っている最中に静かに息を止めた。僕は直後に連絡を受け、部屋に駆けつけたが最期の瞬間には間に合わなかった。しかし担当のユニットのケアワーカーが最期をしっかり看取ってくれていた。

その後、市の保護課の担当者により、葬儀社の手配が行われ、金曜日に火葬が行われた。僕をはじめとした当施設の職員もそこで骨を拾って納骨までお見送りしてきた。火葬場の煙突から、空に昇っていく煙を見ながら、Oさんにとって最晩年の施設での生活はどのようなものだったのかを考えていた。

お骨は市が管理する納骨堂に合葬されることになる。せめて僕らは最晩年のOさんの生活に関わったものとして、Oさんの事を時々思い出して、納骨堂に向かって手を合わせたいと思う。

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