格好良さってなんだろう?

姿かたちの好みは人それぞれであるから、そういう意味での格好よさの感じ方は個人差があるし、その価値観を他人が「違う」ということはできないだろう。

しかし人としての姿、心の持ちようを含めた人間としての美しさというものは別なところに存在するのではないだろうか。そしてそれは個人差で好みが分かれるというものでもないように思う。

そういう意味の格好よさを考えた時、若い頃、格好良いと思っていたことが、年をとって考えるとなんと格好悪い事だったのかと気づくこともある。でもそれは人間の姿としての見てくれは変わっていないのであるから、その時は格好悪さに気がつかなかっただけで、その時も醜い姿だったのではないかと考えたりしている。

僕は昔煙草を吸っていた。それも中学生の頃からである。煙草を吸い始めた理由は「煙草を吸う姿が大人びて格好良い」と思ったからである。しかしいつしか人前で吐き出す煙を何とも感じない自分の姿は格好悪いと思うようになった。煙草をやめた理由はそれだけではないが(参照:私はこれで煙草をやめました。)、自分の格好悪さに気がついたことも動機の一つだろう。

勘違いしてほしくないのは、僕がここで感じている格好悪さとは、「煙草を吹かす」という姿のことを指しているのではなく、その煙で迷惑する人がいるのではないかと考えない自分自身の姿のいやらしさを指しているのである。それは喫煙者を否定するものでもないことは断っておく。要は他人に対する配慮の心があるかないかという問題である。

ところで若い頃はいろいろなところで格好をつけたがる時期である。逆に言えば格好悪いということを一番嫌がる時期でもある。

特に人に注意されることは格好悪いと感じる人が多いだろう。しかしその注意の意味を考えずにふてくされる姿ほど格好悪いものはないということに気がついてほしい。

勿論「注意される」「怒られる」という状況は、常に注意を受ける側が悪いというわけではない。

世の中には理不尽なことがいろいろあるのだから、学校で、職場で、社会で、謂れなき非難を浴びることはあるだろう。そういう場合は反論する必要もあろうし、時と場合によっては無視して放っておく必要もある。特に職場の上司等が自己の価値観にしか依らない感情でヒステリックに「怒る」という場合は無視したらよい。

しかし注意を受ける側に非があり、そのことをきちんと指摘してくれることによって、そうした非のある部分に気がつくような場合は、これは自分自身の利益に繋がるもので、注意してくれたり怒ってくれたりする人に感謝こそすれ、恨んだり根にもったりすることはおかしい。ましてや「ふてくされて」終わってしまっては自分の醜さだけが残ってしまう。そしてそれはその人自身にとって哀しい状態と言える。

そもそも職場や学校で注意をしてくれる人はありがたい存在なのだ。誰も人から嫌われたくはないので、怒るということにエネルギーを使いたくはない。しかし怒らないと気付かない人がいるから、優しい指導だけでは勘違いする人がいるから怒る場合があるのだ。

例えば僕が専門学校の特定教科の講義に出向く場合、その教科の知識のみを伝えれば役割を果たすので、社会人としての素養を考えて学生に指導する必要ななく、それは担任教員など専任の教員に任せればよい事である。しかし専任の教員には分からない、現場の施設長から見た学生の欠点を感じ取る能力が僕にはある。そこは絶対に直した方がよいし、それが学生のためなのである。それは時に個人の態度であったり、集団に所属するメンバーとしての態度であったりする。そのことを注意して僕が得るものは何もないが、やはり一人ひとりの可愛い教え子の将来を考えて怒ることがある。厳しく注意することがある。

これは感情的な、ヒステリックな怒りではないのである。そのことも同時に伝えるために僕は、「何が、なぜ悪いのか、おかしいのか」ということも言葉で具体的に説明しながら注意することに心がけている。

その時に、注意されたり、怒られたりしたことの意味を考えずにふてくされるだけの学生は、将来伸びないし、場合によっては福祉援助や介護サービスの現場に向かないと考えてもよいだろう。

そういう意味では、注意されたり、怒られたりする意味を深く考える人になることが大事だ。愛情のある注意と、単なる非難や罵倒を区別して考える人にならないと人間的な成長はない。

人間は失敗する存在である。しかし同時に失敗から学ぶことができる存在でもある。同じ失敗を繰り返す人は、この「学び」がない人という意味だ。対人援助に関わる人間であるなら「学ぶことができない」というのは致命的な欠陥だ。なぜならそれは人の不幸を何とも思わないということと同じであり、人の幸福に繋がる援助に繋ぐことができない人だからである。

自らの成長動機とは、福祉援助や介護サービスの世界では、援助を受ける人々の暮らしの質に直結するものであるということを理解せねばならない。

自分の事を真剣に考えてくれて「怒ってくれる人」は実は貴重な存在なのだ。そのことに気がつかない自分の姿は「格好悪い」のである。

少なくとも僕は、教育の場で人を憎んだり、蔑んだりして怒ることはない。もしそういう感情で怒りをぶつける自分に気がついたら、自らその場所から退場するだろう。

なぜならそこにいるのはすべて愛すべき生徒たちだからである。ただ残念ながら彼らはそのことにあまり気づいていないだろう。

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