僕は神様ではないからすべての人間を好きにはなれない。当然のことながら嫌いなタイプの人間がいて、嫌いな特定個人がいて、付き合いたくない人間がいる。

嫌いな特定の個人であれば、別段スクラムを組んで仕事をする必要はないし、プライベートを含めて付き合う必要を感じなければ無視して生活することは可能である。実際に自分の心の領域からは排除して、存在を無視している特定個人も存在する。

とは言っても自分の嫌いなタイプの人間を全て排除して生活を送ることは不可能だ。そもそも嫌いである原因というのは必ず相手側に原因があるとは限らず、自分の側に原因があることも多い。

つまり「好き嫌い」という感情は自分自身のものであり、この世で最も個別的な感情であって、自分としては嫌いな理由を相手側の様々な問題に結びつけて「事情がある」という理屈を組み立てて生じさせる感情であっても、第3者から見てその感情を持つべき理由が必ずしも合理的で正当な理由ではないことも多い。しかし合理的で正当ではないことを客観的に説明されたとしても「嫌い」という感情が消えてなくなるわけではない。それだけ好悪の感情とは単純なものではない。

だからといって人間は好き嫌いの感情だけをそのままむき出しにして、その感情の赴くままに何でもしてよいということにはならない。日常や仕事を含めた人間生活全体を考えると、そこでは自分自身の感情を抑えて、社会生活が円滑に流れるように「嫌いなタイプの人」との関係性を持たねばならない場面が多々ある。

さらに自分の嫌いなタイプの人間が、福祉援助の対象者であった場合は、それはまた次元の違う話になる。この場合はもっと積極的に自分の好まない感情を自覚して相対する必要がある。これは感情を隠して表面上の言葉や態度を取り繕うという意味ではなく、福祉援助のプロフェッショナルとして、自分の否定的感情をも理解し、自分自身がその感情を分析し、その感情をコントロールして相手を受容し、好ましい関係を構築する必要がある。これが「自己覚知」である。

今、僕は介護福祉士養成校で「認知症の理解」という授業を受け持っている。この中でも受容することの大切さを教えるとともに、受容の前提に「自己覚知」があることを教えている。

加えて、社会福祉援助技術実習に関連した基礎授業も担当しており、この中では時間は非常に短いが(90分授業を4コマ担当している)、社会福祉援助技術の基礎を講義している。

ここではバイスティックの7原則を中心に社会福祉援助技術を教えることとなる。単に原則の意味を教えるにとどまらず、例えば「バイスティックの7原則を居宅介護支援に当てはめると(1) ・ 同(2)」のような具体例を示して、その原則について理解を促したりする。

しかしその前に、「自己覚知」について、その考え方を示し理解を促す必要がある。これが理解出来ねば本当の意味の「受容の原則」も理解出来ないし、全ての原則に繋がっていく考えだからだ。それだけこの考え方、概念は重要なのである。

しかしこの概念について理解ができたとしても、いざ自分自身の事になると、果たして充分な自己覚知ができているかといえば、そこは怪しいところだ。考えようによっては、それは永遠の課題とも言える。自分のことは自分が一番良く知っているという考えは大きな勘違いで、第3者からみた評価が自分のそれとは異なる部分が多々あり、それは自分自身の考え方が唯一無二の真実だとしても、客観的な評価としては他人のそれが正しいという場合がある。この際の本当の意味の自己覚知をどう考えるかはなかなか難しい問題である。

例えば僕自身のことに関して言えば、僕は服装や髪形の乱れには人より寛容的であるが、言葉の正しい使い方をできない職員に対しては否定的な感情を持ちやすいという「自己覚知」がある。整理整頓に無頓着な人は許せても、時間にルーズな人を許せないという感情を持っているという「自己覚知」もある。頭の切れる女性に対して尊敬する前に「可愛くない」と思ってしまいがちであるという「自己覚知」もある。しかしそれが僕のすべてを自信が分析的に覚知していることになるかといえば疑わしい。だから毎日自分が何者であるかを考え続けることが僕自身の鍛錬である。

どちらにしても他人が自分の事をどう評価しているかという部分も含めて、自分の事を客観的に冷静に見つめる「もう一人の自分」というものを持つ必要がある。別に2重人格になれという意味ではなく、冷静に自分自身のことを考えることが必要だという意味である。

これはある程度の訓練を要する問題で、人生経験を積みさえすれば自己覚知が促されるということではない。意識して自己覚知に努めない限り覚知できないのである。

このことを学生にどのように伝え、今現在の彼らの自己覚知をどのように促すべきなのか・・・。この授業に関連するシラバスを考える際に、このことは重要な課題となる。

そんなことを考えながら休日にウォーキングを行っている際に、ふと思いついた方法がある。それは3人一組にした演習である。自分の事をどれだけ自分自身が知っているか、それは他人の評価と同じなのか、違うのかを演習形式で露わにしてみようと思った。

勿論、年ごろを考えると、様々な事柄に揺れ、傷つきやすい微妙な年齢層の学生も多いので、他人の評価が心を刺さないようにそれなりに工夫が必要であるが、適切なアドバイスがあればそれは問題なく可能となる方法だろうと考えて来月の授業で実践してみようと思った。

そのことの結果については、いずれ機会があったらブログ記事として書くことがあるかもしれない。

このようにして、歩きながら考え思い浮かべることが実に多い。このブログ記事も、そういう時に思い浮かんだテーマで書いたりしている。少なくとも僕のブログには、ねじり鉢巻きでテーマを考えて辞書を引きながら書くような記事は存在しない。

だから読者の方々もその程度と思って気楽に読んでくださればありがたい。

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