社会福祉援助や介護サービスの現場は、様々な人に向かいあう現場でもある。

それは人の暮らしに向かいあい、人の心に向かいあう現場である。

Shanさんのブログ記事では池田省三介護給付費分科会委員が、「すぐに現場を知らないって言われるが、ふざけるなと言いたい。実習関係で150以上の現場を知っているんだ!!介護従事者より良く知っている。」と怒っている発言が紹介されている。しかし彼が知っているのは実習生を通しての現場であり、他人の目を通したり、別なステージから覗く利用者と介護従事者の姿でしかない。

我々がいう「現場」の意味は、そこで息をし、暮らしを営む人々とその暮らしを支える人の、それぞれの喜怒哀楽がうごめく場所であり、制度の光が当たる場面と、光の届かない影の部分の両方で、泣いたり笑ったり、喜んだり苦しんだりしている人々の息吹きを直接感じる場所である。

池田省三氏が言う現場とは、彼の概念の域を出ない彼が見える範囲の狭い部分でしかなく、本当の生活者が存在する場所ではない。それは我々が言う「現場」ではない。見たくないもの、聞きたくない声に蓋をして、自らの価値観の中で泳ぎ続けるのもそれなりの見識だろう。揺れ動かないという頑迷さは、それなりに支持する人もいるのだろう。

まあそんなことはどうでもよい。今日は雲の上の話で終わってはいけない。本題はここからだ。

介護サービスの現場は、様々な感情のるつぼであるがゆえに、援助する側の感情も激しく揺れ、時にその感情から心を壊してしまう人がいる。何もかもが分からなくなって逃げ出してしまいそうになる人がいる。志を高く持っていたはずなのに、現場で自らの無力さに気が付き打ちひしがれ、いつしかそこから逃げ出したいと思うことしかできなくなる人がいる。

そのような人は、もともと社会福祉援助や介護サービスの現場に向いていない人ではなかったのではないのかという人がいるが、決してそうではないだろう。人間はさほど強い生き物ではなく、誰もが心を壊してしまう危険性を持っているのではないだろうか。

人間は人を見つめすぎると間違ってしまう。見つめた人の、いいものも、悪いものも自分に感染って(うつって)しまうからだ。その時冷静なもう一人の自分をきちんと意識して関わって行くことができるかどうかが専門家としての社会福祉援助者に問われてくる。

バイスティックの7原則の中の「統制された情緒関与の原則」とは、そういう意味も含んでの原則だと思う。だから相談援助の基礎知識がなく、バイスティックの7原則も分からない人が、ある日急に介護支援専門員の資格を得たからといって、たった一人で現場に放り込まれても相談援助がその日からできるわけがないのである。だから相談援助の現場に出た時に戸惑って壊れてしまうケースが増えている。

そのことを理解してくれる人、専門知識を得る手伝いをしてくれる人が本来いなければならない。

日本の介護保険制度の失敗の一つは、介護支援専門員という資格を得るための実務経験の範囲を広げ過ぎたにもかかわらず、その資格制度創設を急ぎすぎたあまり、このソーシャルケースワークの基礎知識を理解し、利用者に適切に関わる方法論を教えるシステムをおざなりにしてしまったことである。その欠陥が心を壊してしまう有資格者を増やしてしまうという結果になって現われている。アセスメントツールの使い方と、サービス計画書の標準様式の記載方法を覚えたからと言ってケアマネジメントができるなんてことは本来あり得ないのである。

本来そこにはきちんと状況を見つめてアドバイスしてくれるスーパーバイザーとしての上司や、同僚や、友人や、仲間の存在が必要不可欠である。「見つめすぎないで」という声をそっとかけてあげられる存在が必要なのだ。

制度のシステムにそのことが組み込まれていない以上、どうぞそこで業務に携わるすべての専門家は、後輩や同僚に対し、時にスーパーバイザーとして「見つめすぎないで」と声をかけることを忘れないでほしい。

介護を一生の仕事にしようとする人々の動機で常にトップに挙げられるのは「人の役に立ちたい」という動機である。それは言葉を変えれば「人を愛する」という意味であり、人を愛したいという動機である。

しかしそのような動機を持つ人が、いつしか人を愛する方法を失い、人を愛せなくなり、自分自身さえ愛せなくなる。それはとても不幸なことであると同時に、重大な社会的損失である。

どうぞ間違わないでください。

愛し方が下手だと恥じる必要はないのです。愛せないのに恥じない人のほうが多いのです。そちらの方がずっと恥ずかしいことなのです。愛せる人はそれだけで、そのことを誇ってよいのです。だから悩まなくてよいのです。強そうに見えてもみんな同じなのです。

強くなりたくても強くなれないと言うけれど、いったい君は誰より強くなる必要があるのですか?そんなに強くならなくても、普通の人でよいはずです。時には弱くてもよいのです。弱くても自分を変えることだけはできるのです。その時は誰かに支えてもらえばよいのです。

でも君は支える人と、支えられる人のどちらになりたいのでしょう?ねえ、どちらを望んでそこにいるんでしょう?

私たちが利用者に対してできることは、社会全体からみればとても小さな、とるに足らないことです。だけど小ささを恥じて、それをしまいこむ人が多すぎるんです。小さな事ができる人がいるから、誰かが幸せになれるのです。どうぞその小ささを恥じずに誇りを持って続けて下さい。

時には日々行っていることがすべて空しく感じることもあるでしょう。良かれと思って行っていることに対し、相手から拒否されたり、嫌がられたり、無反応であったりする時に、自分の行為を振り返って無力感に打ちひしがれることもあるでしょう。

しかし我々は人の幸福を目指したとしても、我々自身が望む利用者の反応をそこに求める必要はないのです。あくまでそこにいる人にどういう意味があるのか、ということに答えられる行為であるなら、それは間違ってはいないはずです。結果責任とは、利用者が我々の望む反応をしてくれるかどうかに求めるのではなく、客観的に評価した時に「暮らし」が良くなっているのか、暮らしが支えられているのかという結果を問うものなのです。そこではただ「続ける」ということが貴重なこともあるのです。

時にはそのことに疑問を持ち、誰かに慰められたいと思い、優しくしてほしいと感じる人もいるでしょう。それはそれで否定されるべき感情ではないし、そうしてもらうことも必要な場合があるでしょう。

しかし忘れないでください。貴方がそこを目指した理由を。あなたが目指した場所に何を見つめていたかということを。

このブログを読んでくださっているすべての人々に、僕が大事にしている言葉を送ります。

君はどっちになりたいですか?赤い花に慰められる人と、慰める赤い花と・・・。」

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