8月6日の「広島原爆の日」と8月9日の「長崎原爆の日」の前後に、そのことに関連するいくつかの記事を書いてきた。
参照:「広島の空・長崎の空」 「続、広島の空・長崎の空」 「広島の空・長崎の空2010

僕は、この日を「原爆の日」と表現することが多いが、「原爆記念日」と表現しているものも多くみかけたり、聞いたりする。しかし僕はこの表現方法に大いに疑問を持っている。確かに1945年のあの2日間は、人類が決して忘れてはならない日だと思う。しかしそれは人類が犯した最も愚かな行為である「原爆投下」という悲劇を忘れず、そのことを2度と繰り返さないように後世にその悲惨さと愚かさを伝えるという意味であろうと思う。どのような理由をつけても、あの日行われた原爆投下という行為は、人類が人類に対して成しうる、最も冷酷で残虐な、背筋の凍る殺戮行為でしかない。

しかし「記念」という言葉は、「思い出として何かを残しておくもの」という意味であるように、肯定的で心をいやす意味であるように思う。それは原爆投下という史実には全く当てはまらないのではないかと思う。

それは僕の解釈の間違いかもしれないが、僕自身の中ではそういう気持ちがぬぐい去れない。だから僕はこの日を「記念」という言葉で表現したくはない。

今年もその日が静かに過ぎようとしている。しかし今年は、あの大震災が引き起こした福島第1原発の事故という災いの歴史が加わった年である。あの戦争で、そして原爆投下で亡くなられた方々の魂は、今この日本をどう見ているんだろう。

あの戦争や、原爆や、今年の震災で失われた多くの人々が、再び生まれたい国になるように、我々はこの国の未来を作っていかねばならない。

それは手の届かない遠い何かを求めるのではなく、我々社会福祉援助者であれば、我々の周囲の人々の暮らしをしっかり守って、一人ひとりの笑顔を大切にして、その笑顔が継続される社会を作って行くことだ。そうした幸せの輪を広げていく地道に活動が社会全体を明るく元気にすることに繋がって行くと信じて、「アクトローカリー」の精神を忘れないことである。

僕は僕の足元である「緑風園」という暮らしの場での、一人ひとりの利用者の笑顔をつぐむ毎日を創っていくことが大事なんだろうと思う。そこがしっかりしないと始まらない。それは他の関係者の方々も同じだろうと思う。ケアマネジャーやサービス担当者であれば、今目の前に存在する一人ひとりの自分が担当する高齢者の方々の日々の暮らしを守ることから始めないと、この国全体の福祉の増進など図れない。

社会福祉が目指す人々の幸福追求とは、誰かの不幸の上に成り立ついくつかの幸福を目指すものではない。屍(しかばね)の上に成り立つ繁栄などあり得ないのである。そこには最大公約数という概念も、最小公倍数という概念も必要ではなく、人類のすべての人々が共通して獲得できる幸福な暮らしを目指すものであり、社会福祉援助の究極的な目標はそこにあるべきである。

そういう意味では「最少不幸社会」を目指すという政治など馬鹿げており、すべての国民の暮らしを幸福にしたいという理念を掲げられない政治家にかじ取りをゆだねざるを得ない社会は不幸である。

今年の北海道にもまた暑い夏がやってきた。この青い空はあの日の広島や長崎の空と続いている空だ。この空の下で、あの日たくさんの尊い命が失われたことを忘れず、それでもなお、今生きている人々がすべからく幸福に暮らすことができる国を創って行きたいと思う。我々が天に召された時に、あの戦争や、今年の震災で犠牲になった人々に恥ずかしくないような生き方をしたい。

過去から未来まで繋がっているこの空の下で、今我々の周りで笑顔とともに過ごしている人々がいる。この笑顔を大切にしたい。

同時に同じ空の下で、様々な困難にぶつかり悲しみに打ちひしがれている人々がいる。それらの人々の心にも日差しが降り注ぐために、我々が何をできるのかを考えながら、あの日のことに思いをはせる。そんな祈りの日にしたい。

YouTubeより
さだまさし「広島の空」  「祈り

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