今日8月8日は「はちはち」→「パチパチ」とのことで「そろばんの日」とされている。そういえば昔は「珠算教室」にも通っていたな。そろばん3級の資格は持ってるんだ。数学もそんなに苦手じゃなかったけど、高校を転校した当時、数学の教科書が転校前後で変わったとことで、3次関数の授業を受けなかったことから、そのあたりの基礎が分からなくなって、理数系を諦め、文系に進んだ経緯がある。それ以来僕の思考回路は人文科学系で染められている。
計算式の答えは一つしかないが、人文科学の分野では答えは幾通りもあるよな。特に人に対するアプローチの答えは状況によって様々だ。一つの答えしか示さない教科書は役に立たない。
先週火曜日に書いた記事「詫びるべきか、詫びざるべきか」の中で、相談員が書いた家族への手紙を出すべきかどうかについて、投票アンケートを貼り付けて、「僕の指示した対応は、この記事にコメント欄にアンケート投票の終了日の翌日8/9に書き込むことを約束したい。」と書いた。
しかし投票コメントに寄せられたたくさんの意見に答えるためには、その記事のコメント欄だけでは伝えきれないものがあると感じたので、皆さんのご意見に対するお礼と、その返信という意味を込めて新たに記事を書くことにした。このことを是非ご了承いただきたい。
(皆さんの投票アンケートのコメントはこちらから見れます。)
ご覧のようにいろいろな意見がある。多くの真面目な投票者に交じって、質問の意図を分かっていない人間や、最初から投票に協力するつもりではない非難中傷だけを目的とした馬鹿もいる。こういう連中は単に心の貧しい可哀想な人間と無視している。ただ嫌ならわざわざ自分から繋いで人のブログ記事を読むなよなとは思う。嫌いな人間の記事をなぜわざわざ読みに来るんだろう。
投票アンケートのコメント欄にひどく汚い言葉を何度も書き込む人間はいつもの同一人物である。暇な人間であるが、同時に可哀想な人間でもあると思う。多分本当の友達もいない心貧しき寂しき輩であろう。こいつについてはササッと削除して無視している。そんなことはどうでもいい。話がそれた。本題に移ろう。
さて状況を整理してみる。8月に行われる行事の開始時間を、5月に施設に来ていた家族が、たまたま廊下で出会った相談員に確認した際に、口頭で教えた行事開始時間が、実際の時間とは違ったという訴えである。録音もしていない状況下で、相談員が時間を誤って告げたのか、家族が聞き間違えたのか、今になっては分からない。しかしどちらが間違えたにしても、正式な案内文が送られた時に確かめれば済む問題で、それ自体たいしたことではない。人間生活でこの程度の意思伝達のミスが許されないとしたら、そのような窮屈な世の中で生きていける人間はいない。
ここで読者の一部は、施設側の日ごろの対応と、そのことに関係する家族の信頼関係が築かれていないという別問題に視点を向ける傾向にある。「他に施設に対して、不満等があるのではないのでしょうか」という意見は正論であっても、問題解決の何のヒントにもならない。なぜなら先日のブログ記事で紹介した別エピソードを見て分かるように、この家族はすべてに対し満足することはなく、99%の満足があっても、1%の不満の方を問題とする人だからだ。「家族は何かしら別の事に不満があるのではないでしょうか」と問われる人もいたが、我々の予測がつかないいろいろな不満を常に新たに見つけ出す人なのである。
我々も介護のプロとして長年この仕事に関わってきて、日ごろの関係性、信頼関係が大事であることは百も承知で、それがあればこのような問題に発展しないことも重々承知である。この部分で「信頼関係が崩れている。」的なコメントを寄せる人々は、我が施設が劣った対応をしているとは思っているのかもしれないが、決して事実はそうではない。我々自身も、組織としての我が施設も、それらの意見を述べる人と同等以上の対応ができるスキルを持っている。それでもなおかつこういう状況が生じ、そのケースを報告しているのは、誠意をもって当たり前以上に対応してもなおかつ施設側の対応に不満を持ち、日常的にクレームを挙げる人が存在して、そういうレアケースにどう対応するのかという問題提起をしているのである。誠意ある対応さえしておれば、そういう家族は存在しなくなるなんて能天気な考えを持つ人は、このブログ記事は参考にならないので早々に読むのをやめて、二度とここに来ない方が良い。
この相談員は行事企画担当者だから、開始時間を間違えて告げる可能性は極めて少ない。上から目線で家族に対応するような人間でもいないと言い切れる。ただしこれも水掛け論になってしまう問題だから、今更どうのこうの言っても始まらない。そもそも家族から指摘があった際にも、相談員は自分がミスをしていないと一言も言い訳していないし、逆に、「あるいは間違った時間を告げたかもしれない」と考え謝罪している。本来この問題はその謝罪で終わる程度の問題である。それに対して相手は聞く耳持たず捨て台詞を残して電話を一方的に切っている。この後施設側から特段の謝罪やアプローチは必要ないと思う。来園した際に相手が気まずそうにしていれば、わだかまりがないようにこちらから御挨拶する程度で良いだろう。その程度の誠意は常に持っている。
しかしそうはいっても、家族がへそを曲げたまま、そのことが原因で訪問の足が遠のいて一番迷惑するのは、ここで暮らしている利用者自身である。その方に少しでも迷惑がかかってはならない。だからここはどちらが良いとか、悪いとかいう問題は抜きにして、利用者の暮らしにとって一番良い方向を考えて、家族が行事の開始時間を職員が誤って告げたと感じていること自体に、こちら側に何らかの対応の不備があったと考えて、そのことをお詫びして、今後は正式な案内文を待っていただくなどの方法を考える必要はあるだろう。
この場合、当該家族に媚びて問題を生じないようにへりくだるのではなく、毅然とした態度も同時に必要だろう。3月前の予定は未定であることを理解出来ないような態度には、こちら側も真摯であっても毅然として「できないものはでいない」という対応が必要だ。相談員もその必要性を感じているが、今回は軽い気持ちで口頭対応して確認をしていなかったのは、この家族の特性を考えると不十分な対応であったかもしれないという思いがある。そこは区切りをつける上で、正式文書を待つなどの方法を示さずに、その場対応で終わり家族に誤解を生じさせたという点は再度手紙という媒体で謝罪し、バスの時刻表などを示して使える交通手段のアドバイスをすること行ってもよいだろうと思う。
だから手紙の内容は多少変更して、謝罪という形になったとしてもそれを送ることは良しとした。なぜならここで一番重要なのは、一般論として「手紙で謝罪する」という行為が良い事なのかどうなのかと考えることではなく、本ケースの状況ではどうしたら最善なのかと考えることである。本ケースの場合、直接対応している相談員が、手紙を送る方がよいと考え、そうしたいと思っている。社会福祉援助者として日々現場で家族と対応している相談員の能力を僕は信じるし、その判断が明らかに間違っているといいきれない限り、その判断に任せて、その方向で問題解決を図ったほうがよいと考えるからだ。現場で対応する担当者が一番良いと思う方法で最善を尽くすことの方が、一般論の最善を求めるより大事だと思う。そうした現場力を侮るほど僕は思いあがってはいない。
大事なことは、そこで終わりではなく、そこからすべてが再スタートするという意味を取り違えないことである。
つまりこの手紙は、もう一度新たな家族との関係性を構築するための第1ステップという意味で、言質を取られるとか、これが前例になってさらにクレームが多くなるだとか、そうしたことを一切考えることなく、ここでこの問題をクリアにして、その後の様々なアプローチを含めて、気分良く利用者と家族が夏の夜のひと時を過ごしてもらうことを一番優先して考えるべきである。その後の施設と家族の関係は、真摯に毅然とを原則にして新たな段階に向かおうという意味でもある。その際には、場合によって相談員に替って施設長が前面に出て対応する場面が増えるだろう。
どちらにしても今回のケース対応を通じて、相談員が様々な問題を考えて、社会福祉援助者としてステップアップしてくれることが大事で、それによって施設サービスの質が上がり、利用者の暮らしの向上に繋がることが何より大事なのである。
世の中は善悪だけでは動かない。世の中の行為を全て「正義」と「不義」に区別できない。その中間に様々な状況があるし、その行為を見る主体や、見る状態によって、その判断は異なるからだ。
社会福祉援助者というものは、裁判官ではないのだから、この区分を常に明確にする必要はない。その中間に横たわるいろいろな状況や環境に心を寄せて、様々な思いをそこからくみ取るのが社会福祉援助である。人間の遷ろう心を愛しむ立場の者は、善悪の判断を伴わない無償の愛が求められる時がある。
そういうことを本ケースから学ぶことが大事で、そのステップアップの区切りとして、手紙を書いて自分の行為や気持ちを振り返るということがあってもよいのだ。
その後の結果責任は、施設長がとればよいだけの話である。
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介護・福祉情報掲示板(表板)
計算式の答えは一つしかないが、人文科学の分野では答えは幾通りもあるよな。特に人に対するアプローチの答えは状況によって様々だ。一つの答えしか示さない教科書は役に立たない。
先週火曜日に書いた記事「詫びるべきか、詫びざるべきか」の中で、相談員が書いた家族への手紙を出すべきかどうかについて、投票アンケートを貼り付けて、「僕の指示した対応は、この記事にコメント欄にアンケート投票の終了日の翌日8/9に書き込むことを約束したい。」と書いた。
しかし投票コメントに寄せられたたくさんの意見に答えるためには、その記事のコメント欄だけでは伝えきれないものがあると感じたので、皆さんのご意見に対するお礼と、その返信という意味を込めて新たに記事を書くことにした。このことを是非ご了承いただきたい。
(皆さんの投票アンケートのコメントはこちらから見れます。)
ご覧のようにいろいろな意見がある。多くの真面目な投票者に交じって、質問の意図を分かっていない人間や、最初から投票に協力するつもりではない非難中傷だけを目的とした馬鹿もいる。こういう連中は単に心の貧しい可哀想な人間と無視している。ただ嫌ならわざわざ自分から繋いで人のブログ記事を読むなよなとは思う。嫌いな人間の記事をなぜわざわざ読みに来るんだろう。
投票アンケートのコメント欄にひどく汚い言葉を何度も書き込む人間はいつもの同一人物である。暇な人間であるが、同時に可哀想な人間でもあると思う。多分本当の友達もいない心貧しき寂しき輩であろう。こいつについてはササッと削除して無視している。そんなことはどうでもいい。話がそれた。本題に移ろう。
さて状況を整理してみる。8月に行われる行事の開始時間を、5月に施設に来ていた家族が、たまたま廊下で出会った相談員に確認した際に、口頭で教えた行事開始時間が、実際の時間とは違ったという訴えである。録音もしていない状況下で、相談員が時間を誤って告げたのか、家族が聞き間違えたのか、今になっては分からない。しかしどちらが間違えたにしても、正式な案内文が送られた時に確かめれば済む問題で、それ自体たいしたことではない。人間生活でこの程度の意思伝達のミスが許されないとしたら、そのような窮屈な世の中で生きていける人間はいない。
ここで読者の一部は、施設側の日ごろの対応と、そのことに関係する家族の信頼関係が築かれていないという別問題に視点を向ける傾向にある。「他に施設に対して、不満等があるのではないのでしょうか」という意見は正論であっても、問題解決の何のヒントにもならない。なぜなら先日のブログ記事で紹介した別エピソードを見て分かるように、この家族はすべてに対し満足することはなく、99%の満足があっても、1%の不満の方を問題とする人だからだ。「家族は何かしら別の事に不満があるのではないでしょうか」と問われる人もいたが、我々の予測がつかないいろいろな不満を常に新たに見つけ出す人なのである。
我々も介護のプロとして長年この仕事に関わってきて、日ごろの関係性、信頼関係が大事であることは百も承知で、それがあればこのような問題に発展しないことも重々承知である。この部分で「信頼関係が崩れている。」的なコメントを寄せる人々は、我が施設が劣った対応をしているとは思っているのかもしれないが、決して事実はそうではない。我々自身も、組織としての我が施設も、それらの意見を述べる人と同等以上の対応ができるスキルを持っている。それでもなおかつこういう状況が生じ、そのケースを報告しているのは、誠意をもって当たり前以上に対応してもなおかつ施設側の対応に不満を持ち、日常的にクレームを挙げる人が存在して、そういうレアケースにどう対応するのかという問題提起をしているのである。誠意ある対応さえしておれば、そういう家族は存在しなくなるなんて能天気な考えを持つ人は、このブログ記事は参考にならないので早々に読むのをやめて、二度とここに来ない方が良い。
この相談員は行事企画担当者だから、開始時間を間違えて告げる可能性は極めて少ない。上から目線で家族に対応するような人間でもいないと言い切れる。ただしこれも水掛け論になってしまう問題だから、今更どうのこうの言っても始まらない。そもそも家族から指摘があった際にも、相談員は自分がミスをしていないと一言も言い訳していないし、逆に、「あるいは間違った時間を告げたかもしれない」と考え謝罪している。本来この問題はその謝罪で終わる程度の問題である。それに対して相手は聞く耳持たず捨て台詞を残して電話を一方的に切っている。この後施設側から特段の謝罪やアプローチは必要ないと思う。来園した際に相手が気まずそうにしていれば、わだかまりがないようにこちらから御挨拶する程度で良いだろう。その程度の誠意は常に持っている。
しかしそうはいっても、家族がへそを曲げたまま、そのことが原因で訪問の足が遠のいて一番迷惑するのは、ここで暮らしている利用者自身である。その方に少しでも迷惑がかかってはならない。だからここはどちらが良いとか、悪いとかいう問題は抜きにして、利用者の暮らしにとって一番良い方向を考えて、家族が行事の開始時間を職員が誤って告げたと感じていること自体に、こちら側に何らかの対応の不備があったと考えて、そのことをお詫びして、今後は正式な案内文を待っていただくなどの方法を考える必要はあるだろう。
この場合、当該家族に媚びて問題を生じないようにへりくだるのではなく、毅然とした態度も同時に必要だろう。3月前の予定は未定であることを理解出来ないような態度には、こちら側も真摯であっても毅然として「できないものはでいない」という対応が必要だ。相談員もその必要性を感じているが、今回は軽い気持ちで口頭対応して確認をしていなかったのは、この家族の特性を考えると不十分な対応であったかもしれないという思いがある。そこは区切りをつける上で、正式文書を待つなどの方法を示さずに、その場対応で終わり家族に誤解を生じさせたという点は再度手紙という媒体で謝罪し、バスの時刻表などを示して使える交通手段のアドバイスをすること行ってもよいだろうと思う。
だから手紙の内容は多少変更して、謝罪という形になったとしてもそれを送ることは良しとした。なぜならここで一番重要なのは、一般論として「手紙で謝罪する」という行為が良い事なのかどうなのかと考えることではなく、本ケースの状況ではどうしたら最善なのかと考えることである。本ケースの場合、直接対応している相談員が、手紙を送る方がよいと考え、そうしたいと思っている。社会福祉援助者として日々現場で家族と対応している相談員の能力を僕は信じるし、その判断が明らかに間違っているといいきれない限り、その判断に任せて、その方向で問題解決を図ったほうがよいと考えるからだ。現場で対応する担当者が一番良いと思う方法で最善を尽くすことの方が、一般論の最善を求めるより大事だと思う。そうした現場力を侮るほど僕は思いあがってはいない。
大事なことは、そこで終わりではなく、そこからすべてが再スタートするという意味を取り違えないことである。
つまりこの手紙は、もう一度新たな家族との関係性を構築するための第1ステップという意味で、言質を取られるとか、これが前例になってさらにクレームが多くなるだとか、そうしたことを一切考えることなく、ここでこの問題をクリアにして、その後の様々なアプローチを含めて、気分良く利用者と家族が夏の夜のひと時を過ごしてもらうことを一番優先して考えるべきである。その後の施設と家族の関係は、真摯に毅然とを原則にして新たな段階に向かおうという意味でもある。その際には、場合によって相談員に替って施設長が前面に出て対応する場面が増えるだろう。
どちらにしても今回のケース対応を通じて、相談員が様々な問題を考えて、社会福祉援助者としてステップアップしてくれることが大事で、それによって施設サービスの質が上がり、利用者の暮らしの向上に繋がることが何より大事なのである。
世の中は善悪だけでは動かない。世の中の行為を全て「正義」と「不義」に区別できない。その中間に様々な状況があるし、その行為を見る主体や、見る状態によって、その判断は異なるからだ。
社会福祉援助者というものは、裁判官ではないのだから、この区分を常に明確にする必要はない。その中間に横たわるいろいろな状況や環境に心を寄せて、様々な思いをそこからくみ取るのが社会福祉援助である。人間の遷ろう心を愛しむ立場の者は、善悪の判断を伴わない無償の愛が求められる時がある。
そういうことを本ケースから学ぶことが大事で、そのステップアップの区切りとして、手紙を書いて自分の行為や気持ちを振り返るということがあってもよいのだ。
その後の結果責任は、施設長がとればよいだけの話である。
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介護・福祉情報掲示板(表板)
訳がわからない回答をしている人も本当に多かったと思います。
今回の件、相談員さんは本当に思い悩んだことと思います。ますます頼れる相談員になるでしょうね。