(昨日からの続き)
関係者の方々からのお叱りを覚悟の上で、あえて本音を書く。

介護支援専門員の資格試験は、非常に狭い範囲の、たいした難解でもない問題を解いて、一定点数に達すれば合格できることにおいていえば、レベルの低い試験であり、そういう意味ではさして自慢できる資格ではない。

別段優秀な頭脳や、専門知識を持った人間だけが合格しているわけではないのだ。なかにはこの人の頭には脳みその代わりに、マヨネーズでも詰まっているのではないかと思えるほど「物分りの悪い」「見識の低い」「応用力のない」合格者がたくさんいる。
(勿論、その一方では優秀な人材も数多く存在していることを否定しない。)

そういう玉石入り混じった合格者を教育するのが実務者研修である。

しかし一部の人々を除いて、この研修担当者の教育観が非常に低い。すなわち「教官たちは頭脳のかぎりをつくして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するため、勢い教官は懸命に研究せねばならぬ」という状態ではなく、国から与えられた教科書を唯一の拠り所に、何の工夫もなく、テキストに書いてある権威を伝えるだけの内容になっているから、マヨネーズ頭の介護支援専門員が大量生産され、ケアマネジメントと称した、価値観の押し売りを行っている例が枚挙にいとまがない。

ゆえに受講者側も「学生も大いに啓発されてゆく」という状況にはならず、教科書の信奉者であり、かつ朗読者である講師の言葉を暗記するか、メモするだけのモチベーションしか持たない。

講義だけでは得るものが少ないという理由で行われる演習にしても、根本となるべき想像力と創造力の重要さを基礎として教えていないから、そこでは与えられたテーマについて表面上取り繕って話し合うか、職場や仕事の愚痴に終わるかの結果しか残さず、スキルを獲得したり向上させる演習とは程遠い内容で終わっている。

そもそも実務研修などの限られた時間で、ケアプランの作成実務を教科書に沿って教えようとするだけでは、文章の書き方を覚えるだけで、利用者の暮らしを守る援助者を養成することにはならない。本来そうであれば、ここは技術的な部分は多少犠牲にしても、社会福祉援助の本質部分、その真理を伝えるべきなのである。

現在の研修は、サービスの種類と、それを利用者に結びつけるべきケアプランの定型書式の書き方を教えるだけだから、暮らしを援助できないケアプランナーだけを大量生産する結果となっている。

これは一面恐ろしいことで、医師の養成課程にこのことを例えるなら、人間の身体生理学の知識を多少かじって、薬の種類と名称だけを覚えた者に、処方箋の書き方だけを教え、まともな治療技術のない状態であっても医師免許を与えるような状態といえる。そこで病者を治うできるかどうかは、個人の資質と資格取得後の努力にゆだねてしまい、その過程で技術が足りなくて患者を死なせてもかまわないという論理と同じである。本当にこのような医者がいたら恐ろしくて病院にも行けない。幸いなことに医師の養成・教育課程はそのようなずさんな状態ではない。

しかし今ケアマネの養成過程は、例に挙げた状態と少しも変わりがないのではないのか?

本来暮らし作りに関わる、最も個別性の高い援助であるケアマネジメントは、教科書の文章で伝えられる部分はわずかであり、真理は自得する以外ないのである。その真理の自得を促す教育とは、教科書の文言の伝達ではなく、教育者自身が持つ真理を自身の言葉で伝えて、そこから自らの真理を導き出す方法の教示を与え、動機づけを与え、モチベーションを高める役割である。

ケアプランの文章を書くことも大事だが、ケアプランを作れても、人間の暮らしの援助ができなければ意味がないのである。本末転倒教育が行われているのではないか?

特にICFに基づくポジティブプランの導入ということにこだわり過ぎて、計画書の項目の書き方を定型化してしまい、その結果、ポジティブどことか、人間の生活にそぐわない不自然な課題や目標ばかりの意味不明プランばかりになっている。そんな状況をおかしいと現状認識しない専門職はいずれ消えてなくなる必要がある。

教科書を使える教師であっても、教科書しか使えない教師では駄目なのだ。そして本当の教科書とは自分の頭の中にしかないことを自覚すべきである。少なくとも「介護支援専門員基本テキスト」や「四訂・居宅サービス計画作成の手引」(いずれも長寿社会開発センター)は、このことに何の効果も期待できない代物である。はっきり言ってあの本の著者はICFとポジティブプランへの考え方を示そうとするあまり、本来の計画書の文言を現場職員がどう理解できるかという部分の考察に著しく欠けた考え方で終始しているので、ケアプランとして機能しない計画書作成方法を掲載しているに過ぎなく、悪書の部類に入りだろう。そんなの要らないのだ。

文章としてのケアプランが作れても、現場で課題解決に結びつくツールになっていないなら、そんなもの必要のない無駄な紙切れに過ぎない。現在の実務研修は無駄な紙切れの大量生産工場である。

僕は介護福祉士養成校でも授業を受け持っており「認知症ケア」を担当しているが、学校が備えた教科書は一応目を通すが授業ではそれを使わない。勿論教科書の中身から必要最低限教えるべき内容はきちんとピックアップして、それらは生徒に教えるが、教科書の内容そのままを教えるのではなく、自分の言葉で、自分なりの方法でその知識を伝えている。だから当然生徒の理解力、習得度によってその方法は異なってくるので、シラバスは同じでも、毎年同じ授業内容になるということではない。

ここから下の記事内容は多少手前みその部分があることを断っておくが、大学の授業にもユニークな方法を取り入れている方がいる。

鹿児島国際大学の古瀬教授は、授業の中で、福祉関連のブログを生徒に読ませる方法を取りれており、先日は僕のブログが教材として取り入れられた。「6月3日の社会福祉概論」の記事を参照していただきたい。ちなみにこの時に取り上げられたブログ記事は「小さな瞳が見ようとしたもの」であり、ここに学生さんから当日たくさんのコメントも寄せられているので参照していただきたい。

また大学のゼミ教材に僕の著作本を使って下さっている方もいる。「メケアロハプメハナ〜介護に関する本のこと」を参照いただきたい。

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