僕は今、鹿児島空港の搭乗口にいる。これから羽田経由で北海道に戻るが、天気の回復した鹿児島は流石に暑い。今日も30度を超えているが、しかし気温の高さより、湿度の高さが道産子にはこたえる。黙っていても汗が吹き出すほどだ。だがこの湿気を不快に感じないほど、今回の鹿児島で出あった人々は、気持ちのよい、すてきな人ばかりであった。みんな大好きになった。本当にありがとうございました。またお逢いできる日を楽しみにしています。
さて本題の記事更新に移りたい。
最初に断っておくが、今日は社会福祉援助技術について(特にケアマネジメント技術について)それをどのように育むかという問題を語る記事である。
戦争や軍事に関して語る記事ではないが、冒頭はどうしても以下の挿話からはじめねばならない。
日露戦争・陸戦において最も凄惨な戦いであった旅順要塞攻防における二〇三高地の戦いを、劇的な戦術転換によって日本側に勝利をもたらしたのは、乃木大将(第3軍司令官)の指揮権を一時停止して、これに取って代わって指揮をした満州軍総参謀長・児玉源太郎であることを知らない人はいないだろう。
その児玉には、作戦頭脳として二人の優秀なスタッフがいた。松川敏胤(としたね)と井口省吾である。
そのひとり井口省吾が、後に陸軍大学校の教頭を務めていたことがある。その当時の陸軍大臣が軍隊指揮の経験を持たず軍政畑のみを歩いてきた寺内正毅(まさき)であった。
寺内は何の独創性も持たない代わりに、極端な規律好きであったことから、当時の陸軍のオーナー的存在であった山県有朋から「君は重箱の隅をせせるような男だ。」と評されたことがある。もっともこれは寺内をなじった言葉というより、当時の山県は長州閥の親玉という存在であり、実質的には国政を牛耳るほどの魔王的権力を握っており、同じ長州出身であるというだけで、軍事の才能がないまま出世した寺内に対して、長州藩閥の保護者としての愛情をこめての言葉であったろう。
この寺内がある日、陸軍相の立場から、井口陸軍大学校教頭を庁舎に呼びつけ「陸軍大学校に教科書がないのは、はなはだ不都合ではないか。」と叱責したことがある。寺内に何か定見があっての叱責ではなく「その教育状態がはなはだ不秩序になるのではないか。」といういかにも規律好きの寺内の価値観に基づく叱責である。
これに対して、児玉源太郎の頭脳の一部を担った作戦家である井口省吾は、その職を賭して反対した。そのときの井口の言葉が以下である。
「教科書というものは人間が作るもので、ところがいったんこれが採用されれば一つの権威になり、そのあとの代々の教官はこれに準拠してそれを踏襲するだけになります。いま教科書がないために教官たちは頭脳のかぎりをつくして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するため、勢い教官は懸命に研究せねばならぬということになり、このため学生も大いに啓発されてゆくというかたちをとっております。まして戦術の分野にあって教科書は不要であります。どころか、そのために弊害も多いと思います。しかしそれでもなおこれを作れとおしゃるのでありましたら、私は教頭をやめさせていただくほかありません。」
こう言ったため、この話は立ち消えになった。つまり創造力の養成所である陸軍大学校で、教育方法を統一する教科書を作るということは重大な問題で、それは思考回路を一定の枠にはめ、想像力と創造力を持たない教科書の記憶者にしか過ぎない人間を、最も創造力を必要とする戦場で指揮に当たらせる結果を生むしかなく、これでは戦闘指揮者や作戦家は育たず、それは当時の軍国主義国家にとっては亡国の思想であるという井口の正論が通ったのである。
軍事と、社会福祉援助技術を比較するのは抵抗があるが、あえてこの例を挙げたのは、社会福祉援助を必要とする個人に対して、自らの専門知識と援助技術を酷使する段階で、その個別性にどのように対応する能力を持つべきかを考えたとき、そこにはどうしても個人のスキルとして創造力が必要であり、その創造力をどう引き出し鍛えるかということを考えてほしいからだ。
そもそも社会福祉援助は知識や技術を必要とするといっても、利用者の暮らしに必要な社会資源を結びつける段階では、アセスメントから機械的に抽出される課題やニーズから自動的に必要とされるサービスが引き出されるわけではない。そのサービスの特性をも考慮して、それを利用者自身の個性と結びつけて想像し、暮らしをよくするための具体策を創造する一連の過程がケアマネジメントである。しかも場合によっては既存の社会資源以外のサービスをも創造する力(ソーシャルアクション)が必要なのだ。
しかし現在のケアマネ教育は、利用票と提供票を作り給付管理できる人を大量生産しようとし、現任研修ではケアプランの文書作りに主眼が置かれ、それも画一的表現方法という枠にはめ、創造力を限りなく削って定型のケアマネジャーを養成する方法にしかなっていない。
その証拠は、介護支援専門員の実務研修や資格更新研修において「教科書に準拠してそれを踏襲するだけ」の講師がいかに多いことかということで明らかだ。授業内容を「懸命に研究」している講師は一体何人いるのだろう。その状態は嘆かわしいほどである。
教科書を使いながら真理を教えるならともかく、教科書に書いてあることが絶対で、その記述内容を伝えるだけの人間は教育者ではなく、単なるメッセンジャーでしかないということをわかっていない。
現在行われているケアマネ養成教育課程は、国が定めたケアプラン作成方法を押し付け、一定の枠にはめて個性を奪い取る教育方法で、そこでは創造力の芽は摘まれざるを得ない。しかも教育する側が、そのことを分かっておらず、教科書の文章の伝達が「よいケアマネ」を育てる方法だと思い込んでいるから、本当の意味で暮らしを守る援助者は、その研修からは生まれない。
(明日に続く)
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介護・福祉情報掲示板(表板)
さて本題の記事更新に移りたい。
最初に断っておくが、今日は社会福祉援助技術について(特にケアマネジメント技術について)それをどのように育むかという問題を語る記事である。
戦争や軍事に関して語る記事ではないが、冒頭はどうしても以下の挿話からはじめねばならない。
日露戦争・陸戦において最も凄惨な戦いであった旅順要塞攻防における二〇三高地の戦いを、劇的な戦術転換によって日本側に勝利をもたらしたのは、乃木大将(第3軍司令官)の指揮権を一時停止して、これに取って代わって指揮をした満州軍総参謀長・児玉源太郎であることを知らない人はいないだろう。
その児玉には、作戦頭脳として二人の優秀なスタッフがいた。松川敏胤(としたね)と井口省吾である。
そのひとり井口省吾が、後に陸軍大学校の教頭を務めていたことがある。その当時の陸軍大臣が軍隊指揮の経験を持たず軍政畑のみを歩いてきた寺内正毅(まさき)であった。
寺内は何の独創性も持たない代わりに、極端な規律好きであったことから、当時の陸軍のオーナー的存在であった山県有朋から「君は重箱の隅をせせるような男だ。」と評されたことがある。もっともこれは寺内をなじった言葉というより、当時の山県は長州閥の親玉という存在であり、実質的には国政を牛耳るほどの魔王的権力を握っており、同じ長州出身であるというだけで、軍事の才能がないまま出世した寺内に対して、長州藩閥の保護者としての愛情をこめての言葉であったろう。
この寺内がある日、陸軍相の立場から、井口陸軍大学校教頭を庁舎に呼びつけ「陸軍大学校に教科書がないのは、はなはだ不都合ではないか。」と叱責したことがある。寺内に何か定見があっての叱責ではなく「その教育状態がはなはだ不秩序になるのではないか。」といういかにも規律好きの寺内の価値観に基づく叱責である。
これに対して、児玉源太郎の頭脳の一部を担った作戦家である井口省吾は、その職を賭して反対した。そのときの井口の言葉が以下である。
「教科書というものは人間が作るもので、ところがいったんこれが採用されれば一つの権威になり、そのあとの代々の教官はこれに準拠してそれを踏襲するだけになります。いま教科書がないために教官たちは頭脳のかぎりをつくして教えているわけであります。すなわち教官の能力如何が学生に影響するため、勢い教官は懸命に研究せねばならぬということになり、このため学生も大いに啓発されてゆくというかたちをとっております。まして戦術の分野にあって教科書は不要であります。どころか、そのために弊害も多いと思います。しかしそれでもなおこれを作れとおしゃるのでありましたら、私は教頭をやめさせていただくほかありません。」
こう言ったため、この話は立ち消えになった。つまり創造力の養成所である陸軍大学校で、教育方法を統一する教科書を作るということは重大な問題で、それは思考回路を一定の枠にはめ、想像力と創造力を持たない教科書の記憶者にしか過ぎない人間を、最も創造力を必要とする戦場で指揮に当たらせる結果を生むしかなく、これでは戦闘指揮者や作戦家は育たず、それは当時の軍国主義国家にとっては亡国の思想であるという井口の正論が通ったのである。
軍事と、社会福祉援助技術を比較するのは抵抗があるが、あえてこの例を挙げたのは、社会福祉援助を必要とする個人に対して、自らの専門知識と援助技術を酷使する段階で、その個別性にどのように対応する能力を持つべきかを考えたとき、そこにはどうしても個人のスキルとして創造力が必要であり、その創造力をどう引き出し鍛えるかということを考えてほしいからだ。
そもそも社会福祉援助は知識や技術を必要とするといっても、利用者の暮らしに必要な社会資源を結びつける段階では、アセスメントから機械的に抽出される課題やニーズから自動的に必要とされるサービスが引き出されるわけではない。そのサービスの特性をも考慮して、それを利用者自身の個性と結びつけて想像し、暮らしをよくするための具体策を創造する一連の過程がケアマネジメントである。しかも場合によっては既存の社会資源以外のサービスをも創造する力(ソーシャルアクション)が必要なのだ。
しかし現在のケアマネ教育は、利用票と提供票を作り給付管理できる人を大量生産しようとし、現任研修ではケアプランの文書作りに主眼が置かれ、それも画一的表現方法という枠にはめ、創造力を限りなく削って定型のケアマネジャーを養成する方法にしかなっていない。
その証拠は、介護支援専門員の実務研修や資格更新研修において「教科書に準拠してそれを踏襲するだけ」の講師がいかに多いことかということで明らかだ。授業内容を「懸命に研究」している講師は一体何人いるのだろう。その状態は嘆かわしいほどである。
教科書を使いながら真理を教えるならともかく、教科書に書いてあることが絶対で、その記述内容を伝えるだけの人間は教育者ではなく、単なるメッセンジャーでしかないということをわかっていない。
現在行われているケアマネ養成教育課程は、国が定めたケアプラン作成方法を押し付け、一定の枠にはめて個性を奪い取る教育方法で、そこでは創造力の芽は摘まれざるを得ない。しかも教育する側が、そのことを分かっておらず、教科書の文章の伝達が「よいケアマネ」を育てる方法だと思い込んでいるから、本当の意味で暮らしを守る援助者は、その研修からは生まれない。
(明日に続く)
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講義も交流会でも大変勉強になり、かつ楽しかったです。
今回の記事は昨夜の知覧の話からの流れでしょうか?
またお会いできる日を楽しみにしています!