〇さんは、十数年前に近隣他市町村の医療施設から当園に入所された女性である。

当時、相談員であった僕と、看護職員の2名で医療機関まで迎えに行った。我が施設からは高速道路を利用すれば40分もかからない場所である。

当該医療施設から緑風園に向かう途中は、僕らにとっては単なる送迎に過ぎないが、〇さんにとっては久しぶりの外出機会である。だから新しい施設に入所するための移動ではなく、せっかくだからドライブにしようと思い、〇さんが見たい場所をなるべく走るようにした。そして途中から高速に乗って施設に向かう道すがら、サービスエリアに寄って、ティータイムとしゃれこんだ。

とはいっても自販機で紙コップに注がれるインスタントコーヒーを買って飲んだだけだが、〇さんはいかにも美味しそうにそれを飲み「甘いコーヒーを飲むのは久しぶりです」と言われた・・・。あれ、そういえば・・・。〇さんは糖尿病の食事制限で、こんな時間帯に砂糖の入った甘いコーヒーを飲んじゃいけないのである。看護職員と僕がついていながら、そのことをうっかりしていた。しかしである・・・。彼女のその時に何と嬉しそうな事か、何と美味しそうなことか。

糖尿病は、進行すると大変苦しい病気である。目が見えなくなることもあるし、足を切断しなければならないこともある。重篤になれば、いわば体全体が腐ってしまうようなもので、大変悲惨で苦しい思いをする病気だ。よってその治療や管理をおざなりには決してできない病気である。だから食事管理・制限も不必要ということにはならず、周囲の関係者がそのことにストレスを感じないように協力することが何よりも大事である。

しかし僕は〇さんの笑顔が忘れられなかった。たった一杯のミルク入りコーヒーでこんなに素敵な表情になれるのであれば、そのことをもっと大切にしてもよいのではないかと思った。当時介護保険制度が始まる前で措置の時代である。まだケアプランはなく、「個別処遇計画」という言葉はあったが、利用者全員にそれに基づく介護計画を立案するというルールもなかった。

だから介護は、経験と勘に委ねられる部分が大きく、唯一拠り所とされたものは「情報提供書」であり、新規入所者の場合で、他機関から転入所した際に重視されたのは「医師の紹介状」とか「看護添書」などである。そこに書いていることを守るのが絶対であった。当然のことながら〇さんに対しては、〇〇単位の糖尿食と間食制限が指示されており、それ以外の選択肢はないものと考えられていた。

しかし〇さんが、新しい暮らしの中で、できるだけ今日のような「美味しい思い」「素敵な笑顔」が大切にされる暮らしを創りたいと思い、施設に帰って看護職員を通じて所属医師に、食事制限の必要性について改めて指示してもらうようにお願いし、その意味は「本当に今現在の管理された方法が正しいのか」という点から見直しを行ってもらいたい旨を伝えた。

その後、様々な議論や紆余曲折はあったが、結果的に検査データも安定しており、体重管理がきちんとできる範囲であれば厳しい食事制限をする必要はないという結論になり、概ね普通食で、間食もある程度可能となった。

その後70代だった〇さんは80代後半になり、後期高齢者という範疇に入っているが、身体機能は入所時から特段レベルダウンはなく、ベッドから車いすへの移乗介助を行えば、車椅子の自走は可能で、好きな場所に自分で出かけ、機能訓練にも積極的に取り組んでいる。(治療的個別リハビリという意味ではない。)顔は当時よりふっくら丸くなったが、糖尿病のデータは特段悪化しておらず、毎朝のインスリン注射を継続しているが、食事はほぼ普通食を摂ることができて、間食も常識的な範囲で可能となっている。

先日道内のテレビ番組の取材が当園で行われ、その中で〇さんがインタビューを受けていたが「私の楽しみは毎日の食事です」とふくよかな表情で話している姿が全道中継された。その放送を見た家族が「お母さんは幸せだね。」と喜んで電話をしてきた。

糖尿病の管理は、医師の判断に基づき、看護職員と栄養士が協力連携して専門的な知識を拠り所にして関わって行くべき問題であるが、専門家が「まず制限ありき」という考えになっては困る。

特に介護施設は退院という目的がある治療の場ではなく、暮らしの場であり、その暮らしが豊かになるための方法論を「健康維持」という側面を含めて考えるべき場である。だから「できないことより、できること」を探すことが必要とされるし、「制限は馬鹿でもできるが、できることを探すことは専門家しかできない」という考え方が常に必要だ。

ここで間違ってはいけないのは専門家とは人の考えをコピーする人ではないという理解である。人から教えられたものを自分の中で噛み砕き、自分自身の自分なりの考え方ができるようになっている人だけがその道の専門家と言え、これは看護・介護職員や栄養士に限らず、ケアマネジャーも同様である。

人から教えられたことだけしか理解していない専門家は、専門家といっても外部知識の翻訳者にしか過ぎず、それは追随者の哀しさで、意外な着想を思いつくというところまで知識と精神のゆとりを持っていないことになる。

そうした専門家に物事を聞くと十中八九「それは出来ません」という答えを受ける。それは彼らの思考範囲がいかに狭いかという証明でもあり、それは他人の知識のコピーという範囲からしか物事を考えられないことが原因である。

つまり知識をたくさん得ることは必要なスキルではあるが、それだけでは駄目だということなのだ。いくら知識を積み重ねても、それは必ずしも知恵にならず、知恵にならなければ本当の意味での判断力は生まれないということなのである。

そしてもう一つ重要なことは、人の状況も思いも常に遷ろうものであり、変化するものだということだ。つまり思考範囲が狭い人は、昨日の専門家であるかもしれないが明日の専門家ではない、という状況に陥る危険性が常にあるということである。

真の専門家とは、誰かの教えを真摯に受け止めても、そのことを自分の中で充分に咀嚼して、他者からの教えを自分の言葉に置き換えて表現することができる人であることを忘れてはならない。

そして僕に言わせれば、介護保険制度を設計する社会保障審議会・介護給付費分科会などの委員の大半は、この制度に関しては既に「昨日の専門家であるかもしれないが明日の専門家ではない」と言えると思っている。

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