社会福祉とは何かということをあらためて考えると、その答えは結構難しい。

社会保障が社会福祉に包括されその一部をなす等ということは今さら言うまでもないが、社会福祉そのものの定義は、社会の変化と共に変わって行く必要はないのか?そう考えると過去に示された定義をそのまま鵜呑みにしてよい部分と、そうでない部分があるような気がしてきた。ましてや様々な文献を読むと、その定義の概念も統一されていないことがわかる。

例えばその概念は、社会において現実に展開されている社会的な事業をさす場合もあるし、何らかのハンデキャップを持つ人々を援助する行為や活動を指す場合もある。

社会福祉に関連する各法に様々に規定された定義を用いて説明することも可能だが、究極的に言えば社会福祉は人間そのものにかかわる問題であり、人間として人間らしく存在するために行われる社会活動と言えるであろう。

その根幹には「無差別平等」の思想があり、そのことは人間の生命は分け隔てなく尊いという考えがあるはずだ。

人間には様々な能力差がある。そのことは誰も否定できない。しかし学習能力あるいは学力からみて天才児と呼ばれる人と、何らかの障害で学習能力がない人の人間としての存在価値は変わらず、一人の生命として、人間としての価値は同じであるという考え方が必要である。

一方では、無能とか無能力という言葉あるが、それはあくまで相対的意味にしか過ぎず、完全な無能力人間など存在しないと考えるべきである。例えば寝たきり状態に置かれた人であってもスプーンで差し出された食物を口で受け止め、咀嚼して嚥下する能力をもち、その能力を失った人であっても、経管から流された栄養素を、体の中に蓄え、心機能をはじめとした内臓を働かせて生命体として存在し得る能力を持っているのである。

つまり人間は「生きる」ことそれ自体の能力を尊われるべき存在であると言えるのではないのか。

能力が乏しければ自らの意思と力だけで生きることは困難になるだろうが、他人からの援助によりより良い状態へ遅々としても歩み続けることは可能であろう。すべての人間には能力があり、その能力を最高に発揮し得る状態が考えられる限り、目標としての社会福祉が実現可能であると考えるところから我々の援助活動は始まるのではないだろうか。

しかしこうした考え方に対しては、社会福祉に抽象的な理想を導入する結果となり、それを非科学的なものにするものだという批判が向けられよう。

確かに社会福祉が学問として成立することは大事で、そうでなければ体系として後世に伝えられないし、そのためには科学性が必要であることを否定しない。だが行為目標が存在しないところに制度やサービスは存在し得ない。社会福祉援助者は自分が何をすることによって、その活動が向かう対象がどう変わって行くのかを判断できないとその活動動機を持ち得ない。

社会福祉援助者は、人間観や福祉観から現実の社会や人間を見なければならず、様々な形で展開されている現実の人間生活が問題となるのである。そして問題とは解決を要する事柄であり、それを取り上げる主体があってこそ成り立つものだ。この場合の問題とは福祉を阻害する問題ということができよう。

その解決にはしばしば「愛情」というこの世で最も抽象的で、非科学的なものが必要であることに我々は気付くであろう。少なくとも僕はこの科学的ではない愛情というものの存在なしで社会福祉を語ることはできない。

つまるところ真の意味で社会福祉学が成立するためには「人間愛」を科学的に分析する必要があるのではないのか?

しかし科学的に分析した愛は、本当の愛とは別のところに存在するものなのかもしれない。こう考えると常にパラドックスに陥ってしまう僕は、まだまだ修行が足りないのだろう。

ただ一つ言えることは、社会福祉援助の科学性とは、何らかの数値に求めるものではなく、ある現象の因果関係をたどって検討することだから、その過程で愛情というものが結果にどのように作用しているかを検証する作業は可能だろうと思う。

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