僕が高齢者福祉施設に職を得たのは1984年である。

その時と現在では老人福祉の現場は大きく様変わりしているが、その中でも特に変わった点は、男性の介護職員の増加である。1984年当時は、全国的に見ても男性介護職員は数えるほどしかいなかったように思う。当時の高齢者介護施設の感覚では、介護職員=女性であり、男性は施設長などの管理職員や事務職員、相談員と言うイメージであった。

だから当時の特養や養護老人ホームでは、介護職員の職名は「寮母」であった。

1988年に制定された社会福祉士法・介護福祉士法により、福祉と介護の国家資格ができたあたりから、介護福祉士養成校に男性が入学するケースが増え、それに伴って様々な介護現場に男性介護職員が増えていったように記憶している。

今では男性介護職員はマンパワーとして貴重な戦力である。むしろ男性職員なくして、この国の介護サービスは支えられない。

しかし男性介護職員が増え始めた1990年代前半は、男性の介護職員に対して必ずしも肯定的な意見ばかりではなかった。

特に高齢者施設の場合、男性利用者より女性利用者の方が圧倒的に多かったことから、異性介助の是非論とともに否定的な意見が出されることがあった。つまり本来は排泄介助など、羞恥心をともなう身体介助については「同性介助」が望ましいが、もともと子育ての場で母親がおむつ交換を行うなどが普通である文化を持つ我が国においては、男性が女性に介助を受けることは受け入れやすいが、逆に女性が男性に介護を受けることは抵抗感が強いのではないかと言う議論である。よって男性が少ない高齢者介護施設に男性は向かないという議論である。
(参照:同性介護の是非を議論した表の掲示板の過去ログ

その根底には介護職員が女性ばかりであっても、そこに男性利用者が違和感を持つことは少なくても、女性利用者が男性の介助を受けることに違和感を持つことが多いので、男性介護職員を雇用する場合でも、その比率は女性に比べ相当少なくしなければならないという考え方が存在した。

この考えには一理あり、異性介助を行ってよい条件とか、環境とか、その是非論については「高齢要介護者の当たり前の暮らしとは何か?」「人の尊厳とは何か?」という側面を含めて、今後も議論を深めていかねばならない問題であろうと思う。

特に日本人の場合、羞恥心をともなう介護を男性が女性に受ける場合、あまり抵抗感を持たない人は多いが、女性の場合は、男性に「排泄ケア」や「入浴ケア」を受けることに抵抗感が生じやすいという実態はあるように思う。この違いは、個人レベルの意識差として認められるべきだし、その配慮は必要だと思う。しかしマンパワーの不足と、職業として男性が介護の現場に数多く進出している現状からすると、同性介助を完全に遂行するには様々な障害があることも事実だろう。

ただし、僕個人が抱く現在の考え方で言えば、きちんとした知識と技術を持ち、尊厳や羞恥心への配慮ができる人材であれば、性差はさほど問題とならないのではないか?要は人材そのものの問題ではないだろうか?と考えたいし、そうあってほしいと思う。

過去の歴史をもう一度振り返ると、当時の男性介護職員に寄せる偏見とも言える考え方の中には「気のつき方が女性と異なり、男性はガサツな面がある」というものもあった。

確かに男と女のものを見る視点は違うのかもしれない。しかし男性が一概に「がさつ」と言われるのは心外ではないだろうか?辞書を引くと「がさつ」の意味は「細かいところまで気が回らず、言葉や動作が荒っぽくて落ち着きのないさま」と書かれている。しかし男性でも細やかな配慮ができる人もいれば、女性であっても荒っぽい言動が目につく人もいる。

要は性差ではなく、人物そのものの違いではないだろうか。

ただその当時は、まだ男性介護職員が少なく、それらの人々に対する教育も充分ではなかったという背景があり、介護の現場の方法論も貧しく、それが「子育て経験」を拠り所にした方法論という色合いが強く残っており、子育てや家事の経験が少ない男性に対する偏見に繋がっていたと思われる。

もちろん男女の感性は違いがあるのかもしれないし、生理的な部分は異性では理解しがたい面が多いだろう。しかしそのことは介護の現場で女性だけが介護職員として働いていた時代には理解し得なかった男性の生理的な部分も、男性が介護の現場に入ってくることによって理解しやすくなったとポジティブに考えてよいのではないか。当然、ここでは男性職員は知識として女性の生理的部分の理解に努める必要もあることを意味する。

要は介護職員は、知識として男女の相違点や共通点を理解し合いながら、その知識の上に援助技術を積み上げて高品質なケアに結びつける必要があるということではないだろうか。
(参照:男らしいケアが必要なとき

ケアプランという共通言語もなく、有資格者が少なかった当時は、ケアサービスの品質や、個人のスキルに繋がる知識と技術の獲得や向上は、経験ある先輩の背中を見て覚えるもので、それは言葉で伝えられない職人技の世界であった。

なおかつ経験というスキルとしては実態のないものに頼る伝承方法は、OJTとも言えるレベルになく、個人の考え方で差ができ、必ずしも正しい知識や、高い技術が伝えられているわけではなかったという側面がある。

いま介護福祉士の養成校ができ、毎年たくさんの男性介護福祉士が誕生している。介護福祉士の養成教育レベルそのものの問題は別にして、介護というものを学問として学ぶ環境ができたことは間違いなく、その中でスキルを得て向上させる機会も出来たのだから、「気のつき方」も持つべきスキルとして学ぶことが可能であり、そうしなければならない。

学問として学ぶ気のつき方とは、ある意味介護職員として、または人間として、生活に不自由な要素を持ち、不便がある人々に対し、何を考え、どのようにアプローチすべきかを考える方法論である。

気付く事ができる人とは、考える人である。そこには性差は関係ないだろう。

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