このブログを読んでくれている人の多くは、まだ顔も知らない人々である。

しかし逢ったこともないそれらの人々が、仮にこのブログを読んで共感くれているとするなら、それらの人々とは必ず心が繋がっていると思う。そういう人々とはいつかどこかで出会う機会があるかもしれないし、例え一生逢うことができない人であったとしても、それぞれの人生の中で思いを同じくしたという事実は決して軽いことではない。縁という目に見えない絆で繋がったことも人間同士にとって素晴らしい関係なのではないかと思う。

今現在のことを言えば、おかげさまで全国のいろいろな方が、僕ごときのつまらない話しを聞きたいと招待してくださる。そこでいろいろな方々との出会いがある。まずその出会いに感謝している。

そしてそこで初めて出会う人達の幾人かの方から、このブログ記事の更新について「大変ですね」あるいは「大変ではないですか?」と言われることがある。

その際の僕の答えはほぼ共通している。それは「大変になったらやめます」という答えだ。

このブログに、たくさん読者の方が期待をかけてくれているのは有難いが、僕自身の根っこの部分で考えていることは「このブログは、人のためではなく、自分のために書いている」ということだ。自分の心の叫びを文字にすることによって、自分の心を冷静に見つめたり、あるいは折れそうになる心を鼓舞している。

だからわずかな昼休みの時間を使って推敲もしない殴り書きのような文章をそのまま発信することが多い。

記事にしている文章や文字は、僕の「思い」そのものなのである。つまり毎日何かしら書きたい「思い」があるから、記事を更新しているというだけで、この思いが途切れた時が、このブログの幕引きの時であろうと思う。

精神的に老いるということは「物ごとに感動しなくなる」ということだと言った人がいるが、感動とはポジティブな思いだけではなく、時にはネガティブな「やるせない思い」を感じることであろうと思ったりする。

僕は今、毎日いろいろなことを感じている。施設の中で、街角で、人々の息吹を感じながら、いろいろな思いを巡らせている。このブログに我が施設のことを書くことも多いが、それらはその時の状態と思いと到達点であって、日が変われば、それらの過去とは違った思いを日々めぐらせている。だから僕のゴールはまだ見えない。ここがゴールだと思ってしまった時が、僕の退廃の始まりかもしれないなんていう恐れの気持ちも持っている。

僕の中で日々何かに感じる心は、時に哀しみを抱く心に結びつく。

地震という予期せぬ災害によって、異国のビルの瓦礫の下にうずもれてしまった人々のことを考えると、それは見も知らぬ他人であるのに涙が止まらない。救助の手が届かぬ瓦礫を見つめるご家族の心境が自分の心と同化してしまう瞬間があってやりきれない。どうしてこんなことが起こるのだろう。神様は人類にどのような意味で様々な試練を与え賜うのか?

そしたやるせなさや、どうしようもない哀しみを、一つひとつの文字に込めて、喜びも、哀しみも、希望も、慟哭も、それらすべてが僕の一部であると思いながら、ブログという媒体に訴えている。そして訴える相手は他人ではなく、自分自身の心である。

そのことで自分の何かが変わるのかどうなのか、僕は知る由もないし、知ろうとも思わない。ただそうしたいだけだ。

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