僕が代表を務める当地域のケアマネ会は、年10回の定例会を行っており、年度当初に事業計画を作る際に会員をいくつかのグループに分けて各グループが担当する定例会を決めている。つまり定例会は各グループが企画運営するわけだから、必然的に会員全員が年に一度定例会の企画運営に関わることになる。

だから様々なユニークな企画がされることになって、介護保険制度理解を問うクイズや試験なんていうものも時々ある。僕の場合、日ごろ偉そうなことを言っているので、こういう場で答えがわからないとシャレにならない気もするが、世の中はシャレになることばかりではないので許してもらうことにしている。

さて、来月の定例会企画グループから相談があって、いま議論されている制度改正の内容を知らないケアマネが以外と多いので、僕に制度改正の議論内容について話してほしいという依頼があった。正直11月はいろいろと忙しいのであるが、おひざ元の「のぼりべつケアマネ連絡会」の会員が制度改正の中身を知らないのでは、日ごろ「地域からのソーシャルアクションが大事だ」と言っている僕が代表を務める会の会員に対する情報提供が足りないと言われても仕方ないので、これこそシャレにならず、許されるものではないと考え受諾した。

そこで昨晩、新たに「介護保険制度改正の論点〜どんな制度になるの?」というファイルを作っていたら、改正議論の中で示された考え方にも大きな矛盾が存在していることに気が付いた。

例えば、地域包括ケアを推進し、その一方で家事援助等の給付を保険給付外にしたり、施設サービスの減免制度をなくせと主張している急先鋒の一人、龍谷大学の池田省三教授は、新しいケアシステである24時間巡回サービスを中心にした地域包括ケアの必要性については、現制度の欠陥として次のような指摘をしている。

「現在の在宅サービスは、中重度の要介護高齢者の生活を支え切れていない。とりわけ認知症をめぐる深刻な事態はほとんど対応できていない。」「相も変らぬ保護・依存サービスが横行して本人の生活を回復させるケースは少ない。介護サービスの多くは家族の代行サービスレベルにとどまっている。」

しかし「家族の代行サービスレベル」といっても、生活援助(家事支援)は、同居家族がいる場合で家族がそれを行える場合は、そもそも保険給付の対象になっていないのだから、そのサービスが提供されているのは高齢者世帯や独居の方に対してであり、その生活援助を単に「家族の代行」と決めつけるのは間違っている。なぜなら独居の高齢者等の家事援助の必要性は制度施行時に議論され「暮らしを支えるために必要」と結論付けられ、これを保険給付対象にしているんだから、この計画を立てたケアマネを指弾するのは本末転倒だ。そうであれば池田氏は、家族が同居している高齢者に対する身体介護の一部が「家族の代行サービスレベル」と指弾していると思わざるを得ない。

しかし「介護サービスは家族の介護代行ではない」で指摘しているように、身体介護については介護者の有無は問われず、その必要性は、家族介護が限界に達したときのみではなく、長期間の介護を継続できる環境を構築する視点から求めるものであり、主介護者が「できる行為」=「必ずしなければならない行為」と判断するわけではない。それは家族ができることであっても、その家族が一時的・意識的に「休むこと」も必要であり、その間の支援行為を専門家に任せることが必要である、という判断をすることがケアマネジメントであり、これはまぎれもない「レスパイト・ケア」である。

そうであれば池田教授の主張は、このレスパイト・ケアさえも否定しかねないもので、制度の根幹にかかわるものとして彼こそ指弾されるべきである。

しかし一方で、介護保険制度改正の看板の一つとして先行実施されようとしている「お泊りデイサービス」の必要性について、社会保障審議会介護保険部会では「レスパイト・ケアの拡充」としてその保険給付化を正当化している。池田さんは、なぜこの議論に異議を唱えないのか。

ここは大きな矛盾である。

そもそもケアマネジメントの質の低さや、家事援助外しを主張する同氏は「御用聞きケアマネ」という言葉で現場の介護支援専門員とケアマネジメントを罵倒している。

確かにその言葉でしか表現できない仕事をしているケアマネジャーも存在するだろうが、十把一からげで介護支援専門員やケアマネジメントを論じた視点からの結論ではしょうがないし、家事援助が真に居宅生活を支えている事例を無視して語る制度改正論で、高齢者の暮らしが支えられるわけがない。

そんなことは彼らが作りだした18年改正の「新予防給付」なるものが、掛け声だけのフィクションで実態がないものになり下がっていることで証明されているではないか。このことを制度を設計した連中は、単に政治のせいにしているが、自分たちの設計図に間違いがないと言い切れるのか?だって多くの関係者がこの案が出た当初から、これは「幻想だ」と指摘していたものである。

つまり制度設計に関わっている委員も、その背景にある団体も、多かれ少なかれ、国から研究補助金等を交付されている関係があるか、国の機関の委員という役職を与えられている人々で、いうなれば彼らこそ国の「御用聞き委員」なのである。だから財源論を盾にした理屈にしても、その手当を、国民に向けたサービスに使う財布のひもには厳しいが、社会的に何の意味もない研究費名目で各種利権団体に交付されている特別会計からの補助金の使い方等にはまったく言及せず、その部分の財布のひもは緩めっぱなしである。

国の御用聞き委員でよい制度が生まれるわけがない。

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