子供のころから自分が将来目指そうとした職業というものは色々とあるだろう。

僕もたくさん、なりたかった職業があるが、高校時代に憧れていた職業は新聞記者である。文章を書くのが好きだったこともあるが、事件や事故を追って取材する記者の姿が何やら格好よく思えた。よく考えると小学生の頃も壁新聞を作るのが好きだったから、その時からの憧れかもしれない。

当時、早稲田大学の文学部に新聞学科というところがあり、本気でそこを目指そうと考えていた時期がある。その頃、国立大学をあきらめて私大を目指した経緯と、早稲田を目指す思いについては「masaのフォーク道6〜ああ早稲田」をご覧いただきたい。

しかし結局のところ僕は、その夢をあきらめ、現役で北星学園大学に入学し、福祉の道を選んだわけである。その理由は「社会福祉」に情熱を傾けたわけでもなく、確固たる理念を持っていたわけでもなく、早い話が家の経済的事情である。

父親が長年働いていた三菱金属が経営する下川鉱山(銅の鉱山である)が閉山し、父が四国の三菱の研究所に単身赴任して、母親が祖父と祖母と二人の子を実家で守っている状態で、かまどをさらに増やして私大に通うということには無理があった。だから当時の僕の選択肢は、国立大学に合格するか、私大なら家から通える範囲か、というものであった。

もちろん僕に根性があれば、東京の私大に通いながらバイトで学費や生活費の一部を稼ぎ出すという別な道もあったのだろうが、学業のためにプライベートな時間を削って頑張るほどの根性もなく、苦手な理数系を克服して国立を目指そうという気概もなく、結局のところ、家からJR(当時の国鉄)で通える札幌の私大を選択したわけである。

では札幌の私大の中でも、なぜ北星で、それも福祉学科(当時は文学部福祉学科であった)を選択したかといえば、まず当時の北星学園大学は(今では考えられないことだが)入学金と学費が道内一安かったという事情がある。おそらく国立の学費に近かったと思う。

当時の学内には文学部と経済学部があり、文学部は英文学科と社会福祉学科に分かれていた。しかし経済学部は野郎しかいないし、女の子の多い文学部を選ぶのは僕にとっては「当然」のことであった。女の子がいないキャンパスライフなどまっぴらである。だがいかんせん英語アレルギーで、英語があふれる中に3時間以上いると命の保障がないと医師に止められた・・・。(もちろん嘘である)

よってここにめでたく、社会福祉を目指す18歳の若者masaが誕生したのである。

しかし当時、この学科を卒業しても福祉に道に進むとは限らず、僕自身も入学した当時は、何を将来しょうかまったく決めておらずに「どうにでもなるさ」という思いが強かったが、それが変わっていって、やがて福祉の世界に身を置きたいと考えるようになった経緯については

「Think about my Daughter 〜もうひとつの少年期との出会い」
「Think about my Daughter 2 〜 僕は天使ぢゃないよ」
「Think about my Daughter 3 〜 彷徨(さすらい)」
「Think about my Daughter 4 〜 最終章:光と影」

をあらためてご覧いただきたい。僕の青春の1ページのなかでも、意味のある濃い時間がこの4つの記事の中に存在している。

今、福祉の職場に身を置いて、自分自身はこの仕事に誇りを持っているし、この業界で働かせてもらっていることに感謝しているし、振り返ってあの時、福祉の道を教えてくれた大学に進めたことも幸運であったと思っており、自分の今までの人生に何も後悔することはない。

しかし今でも僕の中では新聞記者は「あこがれ」の職業で、北海道I新聞社のK新聞のK記者も憧れだし、元福祉新聞の記者だったE荘のS施設長は、なぜそんなかっこいい職業から、苦労が多い社会福祉の道を選択したんだろうと大いに首を傾げたりしているのである。(笑)

人生が2度あるとしたら、今度は記者をもっと本気で目指すだろうか・・・。

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