先週(8/27)、札幌市の社会福祉法人ハピニスにおいて「看取り介護講演」を行った。

金曜日の午後5時30分からの講演であったが、特養はじめ障害者福祉施設、グループホーム等総勢100人を超える職員の皆さんが90分の講演を熱心に聞いてくださった。

講演の最中に、複数の皆さんが目頭を押さえて、涙を流しながら聞いてくださり、その熱心な受講態度には、大変感謝している。おそらく僕の話振りが涙を誘うというより、様々な実践ケースの紹介の中で、我々にいろいろなことを教えてくださった今は亡き、おじいさん、おばあさん達の「思い」が受講者の方々に伝わっていった結果であろうと思っている。

僕が初めて「看取り介護」を講演テーマとしてお話ししたのは、平成18年7月31日、岩手県社会福祉協議会・高齢者福祉協議会主催の研修(会場:アピオ)であったと記憶している。

それは、18年4月から特養の介護報酬に「看取り介護加算」という加算報酬が認められた際に、算定要件の一つであった「看取り介護指針」を僕が(多分最初に)作り、いち早くホームページからダウンロードできる形で公開したのがきっかけで、この取り組みの先駆者と見られていたからであろう。

実際には看取り介護の実践自体は、僕の施設以外の施設で先進的な取り組みをしているところがいくつもあり、僕の施設はそこを目指して、努力をしている段階にあったに過ぎないが、その過程で様々に考えてきたことや課題を言葉にして伝える、という意味で講演をお受けしてきた。

その後、道内外で何度も「看取り介護講演」を行ってきたが、平成18年〜19年当たりの講演内容と、現在の内容はまったく中身が違っていると言ってよいだろう。

当時の看取り介護講演は、新設された「看取り介護加算」の意味や課題を中心に、そこで求められている算定ルールに基づいて、いかに施設の中でサービス提供システムを構築していくか、看取り介護計画の中身をどうするか、ということがテーマの中心であったが、今現在は新しい報酬加算ルールの下で行った看取り介護の実践から出てきた課題、気づき、看取り介護終了後カンファレンス(デスカンファレンス)の中で家族の意見から考えたこと、改善点等々が中心になっている。

それから18年〜21年当時までは、看取り介護の対象であるという判断が、単に「医師の医学的見地から回復のない状態」としていたものについて、判断の個人差を埋めるために自然死に対する国民的議論が必要であると課題を指摘していただけであるが、今現在の僕の「看取り介護講演」では、例えば経管栄養をしないで経口摂取ができなくなった以後、末梢点滴だけで終末期に備える際の判断基準を、選択肢の一つとして、ある程度の明確な基準を示して、これが将来エビデンスとなるであろうという考えと共に示している。

つまり講演内容はより実践にそって、具体的に、かつ臨場感があふれたものになってきているのではないかと自己評価している。

よって、ここには理想論とか、概念論とかはあまりなく、実際にやっていること、これからできるであろうこと、やりたいことの具体的内容が主になっている。

そして皆さんの前で、こうしたテーマでお話しすることによって僕自身の「気づき」もあるし、自分が施設で取り組むことにおけるモチベーションにもなっていると言ってよいだろう。

だから当時僕の講演を聞いたことがある方々でも、今改めて僕の「看取り介護講演」を聞いても意味があると思う。

ただしその根底にあるであろう、我々の看取り介護に関わる姿勢については、当時と同じことを話し続けている。

それは、大事なことは命というものは、どんな状況に置かれても、誰の命であっても尊いもので、それに代わるものはないということであり、そうであるがゆえに「看取り介護」とは死に行くための援助ではなく、最後までその人らしく「生きる」ことを支援する、かけがえのない命に寄り添うことであるということである。

このことを実践の具体例から示した時、はじめて感じてもらえるものがあると思う。だから看取り介護を話し続けることは、これからも続けていこうと思うし、それは我々のすぐそばにいる、かけがえのない人々の暮らしを豊かにすることのみを目的にしているに過ぎない。

だからその取り組みは、決して特別なことではないはずである。

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