看取り介護に関わっている施設の責任として、常に我々が考えなければならないことは「本当に最期の瞬間を我々が見送るために関わったことは本人にとってベストの選択肢だったのか?」ということである。

何か足りないものがなかったのか、他に出来ることはなかったのか、我々だけの思い込みで看取られる本人の視点とのずれはなかったのか等々、常に自問自答しながら前を向き、より以上の頂(いただき)を目指さねばならない。それが人の命が尽きる瞬間まで関わるものの責任である。

しかしそこに第3者の評価の言葉があれば、我々が行ってきたことに間違いがなかったという気持ちが生まれ、それがモチベーションに繋がり、さらに前を向いて歩くためのエネルギーになることも事実である。

だから看取り介護終了後カンファレンス(デスカンファレンス)における、遺族となられた家族の方々の評価は、我々にとって「怖さ」がある反面「どんなふうに感じてくれたか」という部分で非常に興味のあるところである。

先日亡くなられた90歳代の方の御遺族からカンファレンスに際するアンケートで丁寧な評価をしていただいた。それは以下の通りである。

(職員の対応)→息を引き取るまで(その前より)ではなく、斎場の車が出発するまで見送っていただいたので満足しています。夜中なのにあんなに沢山のスタッフさんが最期まで一緒にいてくれたこと、家族みんなとてもうれしく思い本当に感謝しています。毎日大変なのにあんなに遅くまで残ってくださって申し訳なく思いましたが、同時に嬉しくもありました。姉たちも職員さんが沢山見送って下さったことに本当に感謝していました。援助内容も十分実施して頂き、おかげで傷ひとつないとてもきれいな体でした。これも担当の方がとてもよく見てくださったからと、感謝の思いでいっぱいです。くれぐれも担当の方をはじめ、スタッフの皆さんには御礼を申し上げて下さい。

(医療・看護体制)→日常生活(入浴や爪切り、整髪等)のことをしていただき満足しております。床ずれもなく感謝しています。

(介護サービス)→眠っている状態でも車椅子に乗せて頂き入浴もしていただき良かったと思っています。家族としてこの日常のことがとても一人で出来る事ではないので満足しています。体位変換もいつもしてくれていました。本人への声も沢山かけていただき嬉しかったです。

(設備・環境)→歌声や介護士さん達の声が聞こえ活気があり良かったです。排泄の臭いが全くなくいつも感心していました。本人もいつまでも清潔感があり嬉しかったです。

(看取り介護全体)→計画書も細かく書かれており、ありがたかったです。お世話になりました。

(改善すべき点)→ありませんが、仕方ないことですが、医師が来るまでが長かったです。

以上である。評価してくれた方は自身が看護師をされている方で、専門家から見た視点も含まれているように思える。

本ケースの対象者の方は、朝方3:30に医師により死亡確認されている。実際に呼吸が止まった瞬間は3:00頃であった。遺族より「あんなに沢山のスタッフさんが最期まで一緒にいてくれた」と評価されている点については、当日の夜勤帯に入る時間頃より容態が悪化し、いよいよ最期の時が近づいていることが確実視されたため、当日は家族が宿泊し、同時に当該ユニットの職員が最期を見送るために夜勤者だけではなく、日勤者等が残ったり、休みの職員が夜10:00頃には駆けつけたりして、多くのスタッフが見守る中での最期であったことの評価であろう。

こうした状況は業務命令で作られたものではなく、あくまで担当ユニットスタッフの自主的行動に基づいたもので、我が施設の看取り介護の理念の一つである「寂しい看取りは嫌だ」の実践が浸透している結果ではないかと、この部分については大いに職員を評価してよいと考えている。

前にも書いたが、我々が施設で看取り介護を行う理由の一つは、ナイチンゲールの言葉である「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに替わるでしょう。」という言葉に感銘を受け、その言葉を信じ、そのことの実践に取り組んでいるという意味がある。

だから一つのケースに満足して前に進まないということであってはならないもので、あるケースの遺族の方から頂いたモチベーションを、さらにその後の看取り介護の更なる質の向上につなげていく必要があることを、あらためて考える必要があるだろう。

しかしそれ以前に我々は、長い人生を終え、旅立っていく人に対する敬意と、安らかなれ、と悼む心を常に忘れてはならない。そのことが一番大事なのである。

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