8月13日から今日16日までが「お盆」とされている。これはいわゆる旧盆だから、新盆を導入している地域では1月前に「お盆」は終わっているということになろう。

しかし世間一般的に「お盆休み」といえば、今この時期を指す。今日も「お盆休み」という人は多いだろう。

介護サービス現場では、世間の慣習に合わせて一緒に休みをとるということは難しく、全員がお盆休みをとるということはできないが、それぞれ仕事に影響のない範囲で「有給休暇」を調整しあって休みを取っている人もいる。当施設でも、何人かの職員が今日休みを取っている。

核家族化の進行は、家族単位の縮小という結果に繋がっているのと同時に、親の住まう地域に、子や孫が誰も住まないケースを増やしているという意味にもなるんだから、先祖代々の墓地や、あらたに親が死後の安住の場所として購入した墓地のある地域から、子や孫が遠く離れて住んでいる事例が増えている。

親が生きている間は、お盆に家族そろってそれらの土地に集まり、一家そろってお墓参りをして家族でお盆の時を一緒に過ごし、おじいちゃん、おばあちゃんは孫の顔を見て、小遣いを与えて成長に目を細めるという光景が日本中で見られているんだろう。

しかしその孫が成長し、おじいちゃんおばあちゃんが亡くなった後に、その地域に残るのは墓地だけで、帰るべき家もなくなってしまう、というケースも多いだろう。

僕がまさにこうしたケースで、ここ登別からは車でわずか2時間であるが、岩見沢市というところに実家があって、親が建てた先祖をまつるお墓に、この時期は必ずお参りをして、実家でお盆を過ごしていたのだが、父が逝き、その1年後に母が倒れた後は、実家は主なき空家となっている。そしてお盆に集まる生家を失ってしまった。長らく人が住んでいない家は、水道や電気も止めており、一時的にも帰省して滞在する場所にはならず、用事があって実家の地域に泊まる際も、ホテルなどに宿泊するという寂しい状態である。

逆に言えば、僕のような状況ではなく、遠く離れた地域に、家族や親せきが集まる場所があって、お盆の時期には皆が集まる機会が取れる人たちは、是非そういう時期に休みを取って、そういう時間を大事にしてほしいと思う。自分ができないことだから、人がそういうことをしては不満や不公平感を感じるという狭い了見であってはならない。自分が頑張ることで、だれかが幸福を感じる時間が取れるということにも「喜び」を感じる方が、自分自身の為にも良いことだろうと思う。

僕は今年、土日が休みだったので、14日の土曜日に日帰りでお墓参りをしてきた。

信仰とか、宗教観という問題は別にして、お墓の前で手を合わせることは日本人の慣習として大事なことだろうと思う。そこに亡くなった人の魂があるのか、ないのか知らないが、お墓の前で手を合わせることで、自分を生んでくれた親や、その親を生み育ててくれた祖父母、そしてそれらの人々に繋がるすべての命=御先祖様に、自分の命を伝えてくれたことを感謝する気持ちを1年に1度くらいは持ってよいだろうし、持つべきだろうと思う。

自分の命は自分だけのものでもなく、自分の力だけでこの世に生きているものではなく、様々な人々の善意や好意や、様々な偶然で、この世に生かされている人間という意味を少しだけ考えながら、すべての人々の命の尊さを考えてよい日だろう。

先祖代々のお墓から遠く離れた場所に住み、そこに帰る時間が取れない人も、この時期にそっとその場所に向けて手を合わせる瞬間があるだけでよいのではないだろうか。

大事なことは、過去から現在まで脈々とつながってきた命のありがたさと、尊さを、すべての命の価値として考えることだろうと思う。

戦争を繰り返さない誓いや、戦争で命を落としたすべての人々を悼む心、平和を願う心も、その中の祈りに含まれているものではないのだろうか。

僕の命もいつか尽きるときが来る。それがいつかということが分からないだけで、そのことは間違いのない事実で、これほど確実な未来はない。しかし自らの命は、脈々と子供たちを通じて繋がっていくのだとすれば生命とは永遠なるものだろう。

それは僕が生まれる前から時を刻みつづける海のように、僕が死んだその後も夜をすべり、朝に輝きつづける空のように永遠なるものである。

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