今日は僕の誕生日である。といってもこの年になると誕生日は、また一つ年を重ねて人生のゴールに近づきつつあることを実感するだけで、特別に祝ったり、嬉しく感じたりする日ではなくなりつつある。

しかし人として、この世に生を受けた記念の日に、様々な人々に支えられながら生きてきた自分の軌跡を振り返り、人として自分がこの世に生きているという意味を改めて考えてみることは、何歳になってもしたってよいだろうとも思ったりする。

今年は僕が生まれてちょうど半世紀。我ながら随分年をとったものだ。

僕らの世代は、戦争もなく平和な時代に生まれ、高度成長期という社会全体が豊かな暮らしに向かって行く時期に子供時代を過ごした。しかも日本の伝統社会である地域の人間関係が強く残っている時代でもあった。思えば恵まれ過ぎている世代なのかもしれない。

僕の生まれ育った町は下川鉱山という北海道の小さな田舎町である。そこは「三菱金属」という企業が作った町で、銅を産出していた。最盛期には1万人が住んでいた町のほとんどの住民が同じ企業の社員とその家族である。そこは向こう三軒両隣の関係を超越して、地域のすべての人が顔見知りといってよい特殊な地域であった。だから地域の中での人間関係、家族ではない他人とのつながりが強く、子供が育つには極めて恵まれた環境で何不自由なく育ててもらったと思う。親から人一倍の愛情を受け、欲しいものは与えられ、お腹がすいてひもじい思いをしたこともない。家庭内で孤独を感じたことは一度もなかった。

クラスメートも生まれた時からの遊び友達で1クラス25人・2クラスが僕らの学年だった。その仲間は、幼稚園入園前から中学校を卒業するまで自分の暮らしの中にごく自然に位置していた友である。転校した人は何人かいるが、高校入学前まで8割は変わらず多感な時期を共に過ごした。今でも昔と同じく付き合っている連中も多い。駆け引きも、ごまかしの必要もない人間関係の中で、ほとんどストレスもなく過ごした小中学生時代・・。

残念ながら、その町は既に地図から消えてしまって存在していない。鉱山は閉山して住む人のない廃墟となっているが、故郷の町は僕たち下川鉱山出身者の心の中にいつまでも残っている。

僕は鉱山が閉山する前にその町から転出し、同じ道内の岩見沢市に居を構え同市の高校を卒業し、札幌の大学に通っていたが、その頃、父は道外に単身赴任していた。しかし僕自身は小遣いの心配をすることもなく学生生活をエンジョイしていた。今考えれば多感な反抗期の時期の二人の男の子を抱えて、母親一人で実家を守っていた状況を考えると大変だったろうと思う。

今僕自身が人の親となり、子供の成長に目を細めることも多い日々を生きている。しかし同時に自分を育ててくれたかけがえのない親のうち、父は既にこの世になく、母はベッドの上で一日を過ごす物言わぬ人になっている。

自分自身のことを言えば、親から受けた恩を一つも返すことがないまま今の年に至っている。だからある意味、自分の子にそそぐ愛情は、自分を通して僕の親が孫にそそぐ愛情という意味もそこに含まれているんだろうと思ったりする。

これから先の人生では、我々の子供たちや孫たちが、次の日本を創っていくために大事なことを伝えていくことが必要な時期だろう。僕らが経験したことがない戦争の悲惨さも含めて、平和な国であるからこそ、その平和が続くように子供たちに伝えなければならないことがたくさんある。

殺伐な世の中だからこそ、福祉の持つ公平性や公共性、そして人を慈しむ心や、差別の理不尽さ、命の尊さを伝え守っていかねばならない。

まだ枯れてしまう年ではないし、自分なりに人生をエンジョイし続けたいとも思うが、自分だけのために懸命に、そしてある意味身勝手に生きる時代はとうに過ぎ去り、これから先は自分がこの世に生を受けた意味を問い続けながら、自分の生が、自分の命が、少しでも他人の役に立つことを自身の生きる意味と考えて、日々命の営みを続けていくものではないかと思う。

儚い命であるがゆえに、燃え尽きるまで自分探しの旅を続けたい。人間として大切な何かを求めながら・・・。

それにしても誕生祝いのメールが携帯に入ってきたと思ったら、奥さんでも息子でもなく、会員になっている洋服の〇〇からだった。家族は気づいていないのかな?そのことは少しだけ寂しいか・・・。

今日は誕生プレゼントとして、ここを訪れた皆さんには是非短くてもコメントを書いていただければ嬉しい。ついでに下のボタンもプチっと押していただければなおありがたい。
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