今年2月、岡山県で全盲の女性が盲導犬と一緒に路線バスに乗車中、運転手から「車内が犬の毛で汚される」と言われた。女性の相談を受けた関西盲導犬協会が改善を県バス協会に要請。その後バス協会は加盟各社に盲導犬への理解を求めた。しかしこの問題はここで終わらなかった。

女性が5月にバス乗車した際にも、同じ運転手が「犬を乗せるのは嫌だ」と発言。そのため再び相談を受けた関西盲導犬協会が、県バス協会とバス会社に改善するよう口頭で申し入れたが、それに対してバス会社は「事実関係が確認できていないのでコメントは控える」としている。

スポーツ紙の片隅に載せられていたこの記事を読むと僕はとても哀しくなる。

その時の女性の気持ちを思う哀しみだけではなく、街の片隅でこうした差別や虐待が日常的に起こっているという事実に対する哀しみであり、周囲の人々がそうした状況にものを言わない社会に対する哀しみであり、この国の民度の低さを思い知る哀しみである。

視覚障害のある方にとっての盲導犬は体の一部だろう。単にペットと一緒にバス乗車するという問題とはまったく違う状況だということは「常識ある人間」ならば誰でもわかることだ。

このことは障がいのある人々を同情的に見るとか、周囲の人が人一倍優しくなければならないということではなく、ハンデキャップを持った人の不便に対して、周囲の人々がその解消のために協力するというのは当たり前のことであるということに過ぎず、それは人間として普通の感覚ではないのか?

路線バスというのは「公共の交通機関」とされているんだ。公共性があるということは社会的責任も普通以上に求められているんだぞ!そのことを分かっているのか。目と杖の役割を持つ盲導犬の乗車を拒否するバス運転手など社会悪以外のなにものでもない。

バスの路線も、乗車時間も分かっているんだから、会社は運転手を特定して、事実確認をしたうえで厳正なる処分をすべきである。

当事者である、この全盲の女性は、そのときどんな思いでバスに揺られていたんだろう?

その気持ちは察して余りある。こんなことが許される社会であってはならない。同じバスに乗車している人は何も言わなかったのだろうか?それも寂しいことだ。

バリアフリーという言葉が日常的に使われるようになった現在でも、人々の心のバリアフリーはこんなにも遅れている。しかし超高齢社会である現在の我が国の一面は、ほとんどの人間が人生のある時期を迎えた時に、人の世話にならずには生きていけないことをも意味しているのだ。

その時に目と杖である盲導犬を拒否する人は、どのような気持ちで人に頼るのだろうか?ハンデキャップを持ち日常生活に不便のある人を周囲の人々が当たり前に支える社会でない限り、自分もその社会でずっと幸福には暮らせないのである。

少なくとも僕は、そんな差別的発言を平気で行う運転手を許せないと思うし、同時に自分や自分の子供たちに対しては、こういう状況に出くわしたら、決して「聞こえないふり」をしてはいけない、「物言わぬ市民」であってはいけない、ハンデを持つ人をきちんと当たり前に守るために、不当な差別発言をする人には正当な抗議をすべきであると伝えたい。

沈黙も時には虐待や差別と同じ意味を持つということを忘れてはいけない。

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