孤独とは深い闇の中に一人残される不安と関連しており、人が生きる過程で自分一人では何一つできないことと関連している。

周囲に誰もいないわけではなくとも人は孤独を感じることがある。たくさんの人間に囲まれ、ざわめきうごめく人々の息吹を感じているときでさえ人は孤独である。雑踏の中で、群衆の中で、人は孤独に打ちひしがれている。

なぜならば自分のことを誰も認めてくれず、無視され、頼る人さえいないときに人は孤独であるからだ。

孤独とは心が繋がる人が誰ひとり存在しないことである。そしていつまでも孤独に耐え続けられる強い人間などいないはずだ。孤独を好む人もいることを否定しないが、多くの場合、それは限定された場面における孤独でしかない。

我々は社会福祉援助や介護サービスを通じて、様々な利用者と向かいあっている。その時我々は、それらの人々の孤独感を受け止める感性を持っているだろうか。決して孤独感を感じないように心の回線を繋げあっているだろうか。

介護施設で、居宅サービスの現場で、多くの人々に囲まれながら孤独を感じている人はいないだろうか。

自分を誰ひとり分かってくれない、自分のことを理解してくれない、という心の叫びを発している人はいないだろうか。

認知症の人々が歩き回っているのは、自分のことを理解してくれる誰かを探し続けているからではないのか。1日の大半をベッドの上だけで過ごす人々の視線が追っているのは、自分のことを気にかけ、自分のことを見つめてくれる誰かではないのか。

人を認めているか。人を求めているか。人を愛しているか。

社会福祉援助者に知識や技術は必要不可欠であるが、人の心を思う感性や、目に見えない人を愛おしく思う感情は、その前提条件としてなくてはならないものだと思う。

人を人として愛(いつく)しみ、故郷を愛し、自然を愛(め)で、命を大切にする心を持つことが何より大切である。

我々は誰かの不幸の上にのっかった自己の幸福を欲しない。人の流した涙の川で自らの体を清めることを欲しない。

全ての人が、人として遇され、心から愛される地域や国や世界であってほしいと望むものである。それは夢物語で現実としてはあり得ないというが、そうした現実を求めないのであれば人間の存在とは何と空しいものなのだろう。

誰かの哀しい叫びに耳をふさいで生きて行くことが大人になることだとしたら、人間の成長とは心を閉ざし、心を失っていくことなのだろうか。心を殺せ、殺せと言い聞かせなければ生きていけないとでもいうのだろうか。

群衆の中の孤独に手を差し伸べる人が一人でも増え、この世界に笑顔が満ちて行くことを我々は欲してこの業界に足を踏み入れた。理想はいつしか現実の荒波に揉まれ、掲げた旗は、いつしか色あせ、破れかけようとしているのかもしれないが、この部分の「青さ」を失ってしまわないようにしたい。

この国の新しいリーダーは「政治の役割は、国民や世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか『最少不幸の社会』を作ることだ。」と語っている。その通りだと思う。しかしその言葉をスローガンだけに終わらせないように、具体的政策の中にその実現性を取り込んでいくことが政治家には何より求められる。その時に「青さ」を失ってしまえば、それは単なる幻想社会に終わってしまうだろう。

すべての人々が、この国から、世界から見捨てられ「群衆の中の孤独」に陥らないように、全ての人々が自分以外の誰かを暖かく見つめる目が必要だ。一人でもそういう人が増えることによって、誰かの孤独や不幸に少しだけ光を当てられる。その光が少しずつ増え続けて行けば「ぬくもり」は社会の隅々に満ち溢れていくことだろう。小さなことから、それは始まる。

人の世の 旅人として生かされて 終の日までも夢に生きたし(読み人知らず)

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