介護保険施設だけではなく、特定施設やグループホームなどでも「看取り介護」に取り組もうと考えている関係者が多くなってきた。
それは加算算定という収益上から考えられるものではなく、自分たちが関わっている利用者の方々を最期までお世話したいという意思の現われであり、そのことを望む利用者や家族が増えているという意味でもある。そもそも看取り介護を行って加算算定しても、それ以上にコストがかかる現状では、収益は「動機づけ」にはならない。(参照:看取り介護へ寄せられる疑問に答える)
介護施設が看取り介護を行う理由は「収益を挙げるため」ではなく、それ以外の必要性や、動機づけが超高齢社会の中で生まれているということなのである。
つまり、これからの我が国は医療機関で死に臨むことが当たり前という価値観だけではなく、様々な暮らしの場で、自分らしく最期の時を過ごす方法が模索され、医療機関以外での「死」を選択することも、ごく普通に行われるような世の中に向かっているということだろうと思う。
そういう意味では、今から10年後に「日本人はどこで死ぬことができるのか?どこで死ぬべきか?」という答えは今より多様化し、様々な価値観において選択肢が広がっているのではないかと想像している。
いや、むしろ年間死者数が莫大に増え続け2030年にはその数は170万人を超えるとも言われる我が国においては積極的に死の場所を選択できる方策が不可欠である。介護施設もその役割を担うために日々努力・研さんしていくことは求められる社会的使命である。
ところで、いざ自分が所属する施設なり事業所なりが「看取り介護」に取り組もうと考えた時に、最初にぶち当たる壁は、職員の意識改革である。いきなり「看取り介護」「ターミナルケア」を行えといっても、それに対する適切な準備がされていないのでは無理である。きちんと自分たちが看取り介護に係るために、看取り介護とは何か、そこでは何が求められ自分たちのすべきこと、求められる役割とは何か、具体的に何をどのようにするものなのか、という共通理解が不可欠である。そのために管理者等は研修を含めて準備を進めるわけであるが、その際に必ず表出する問題は介護職員等の不安感から生じてくる目に見えないバリアである。
特に介護職員が抱きやすい不安は主に次の3点である。
1.そもそも医療機関ではない場所で、死に臨むことが良いことなのか?
2.夜間、医師や看護職員がいないときに医療処置ができないから無理ではないか?
3.自分が夜勤のとき臨終場面に相対しても何をして良いかわからない。
これらの不安は、看取り介護というものがどのような状態を想定しているのかをイメージできていないから生ずる不安だろう。看取り介護の状態である=終末期である、という判断は、あくまで医師の判断によるもので、それ以外の者がその判断に容喙(ようかい)するようなことがあってはならず、それは病状が重篤だから高齢者には治療が必要ない」と判断されるものではなく、また「もう年だから」と年齢だけで終末期と決めてしまうものでもない。高齢者の積極的な治療は無駄だといった価値観は徹底的に排除されたうえで、人間として安らかに最期を迎える状態とはどのような状態かという観点から「医師が一般的に認められている医学的知見から回復の見込みなしと診断した者」であり、例えば「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能ですが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよい。」と判断させることもある。この判断基準については現在も医師個人による判断差があるところで、今後も議論が必要であることを否定しないが、こうした判断に基づいているという意味は「医療機関で対応すべき状況ではない」という意味も含まれており、死に臨む場面であっても必ずしも医療・看護処置が必要ではないということも表している。
だからその瞬間に家族と介護職員しかいない場面があるだろうし、介護職員しかいない場合もあるだろう。そうであってもそのこと自体は不適切ではなく、それまでの対応を含めて看取り介護をチーム全体でどのように支えてきたかが重要なことであり、そこでは対象者自身が、安らかにその瞬間を迎えられるように、手を握り、声をかけて、息を止める瞬間を「看取る」ことが我々に求められることであり、医師や看護師が対象者が息を止める瞬間まで常時そこにいないから「できない」という問題ではない。
ただこうした不安感を介護職員が抱くことは、ごく当たり前で正常な感覚で、むしろ「看取りの臨床」において、トップダウンの方針に何も疑問を感じないという方が危険な状態とも言え、管理者は、そうした不安に適切に答える理念と具体的方法論を作ることが大事だろう。
日本では現在8割以上の方が医療機関で「死」を迎えており、それが当たり前のように思われ、医療機関で亡くなる限りにおいて、その死の瞬間をどのように迎えたかは問題にすらならないが、医療機関であっても、ベッドで一人さみしく、誰からもその瞬間を看取られることなく逝ってしまった人は、本当に最期の瞬間に安らかであったのだろうか?医療器具で延命されて死にたどり着いた人々の人生の最終ステージは豊かな時と言えたのであろうか?ということも検証されてよいだろう。
しかし何度もこのブログで主張しているように、わずか半世紀前まで、日本人の8割が死をも変える場所は自宅だったのである。もちろんその背景には健康保険制度が充実しておらず医者にかかることができない人も多かった、入院出来なかった人が多かった、という要因もあろうが、専門医療のないところで、家族や親族に看取られながら安らかに息を引き取った方もたくさんおられるはずである。その時代より今の時代は格段に「進んだ時代」であると言われているが、同時に失ってしまったものはないのだろうか。
介護施設で看取るということは、何も終末期の医療を否定するものではない。医療機関の一般病棟で積極的な治療を受けながらも最期の時を迎えざるを得ない必要な人もいるだろうし、緩和ケア病棟で医師や看護職員の専門的管理のもとに終末期を過ごした方が良い人もいるだろう。
同時に医師や看護職員のサポートは必要としても、家族や介護職員で安らかな時間を過ごす支援を行いながら家族や介護職員が最期の瞬間まで看取ることがあってもよいケースは多いだろう。
旅立つ人々が最期の瞬間に求めているものは、冷たい聴診器や注射針ではなく、関係深い人々の暖かな手のぬくもりであるということから臨終に向かいあう介護職員の役割を考えることがあってもよいのではないだろうか。
ただし、そうした支援をできる条件は、看取り期に対する明確な理念と、安心・安楽の支援を行うことができる具体的方法論を持つ介護施設や事業者であらねばならないことは言うまでまなく、理念も知識も技術さえもない者が、そこに携わってはならないことも一面の真実として心しておかねばならない。
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それは加算算定という収益上から考えられるものではなく、自分たちが関わっている利用者の方々を最期までお世話したいという意思の現われであり、そのことを望む利用者や家族が増えているという意味でもある。そもそも看取り介護を行って加算算定しても、それ以上にコストがかかる現状では、収益は「動機づけ」にはならない。(参照:看取り介護へ寄せられる疑問に答える)
介護施設が看取り介護を行う理由は「収益を挙げるため」ではなく、それ以外の必要性や、動機づけが超高齢社会の中で生まれているということなのである。
つまり、これからの我が国は医療機関で死に臨むことが当たり前という価値観だけではなく、様々な暮らしの場で、自分らしく最期の時を過ごす方法が模索され、医療機関以外での「死」を選択することも、ごく普通に行われるような世の中に向かっているということだろうと思う。
そういう意味では、今から10年後に「日本人はどこで死ぬことができるのか?どこで死ぬべきか?」という答えは今より多様化し、様々な価値観において選択肢が広がっているのではないかと想像している。
いや、むしろ年間死者数が莫大に増え続け2030年にはその数は170万人を超えるとも言われる我が国においては積極的に死の場所を選択できる方策が不可欠である。介護施設もその役割を担うために日々努力・研さんしていくことは求められる社会的使命である。
ところで、いざ自分が所属する施設なり事業所なりが「看取り介護」に取り組もうと考えた時に、最初にぶち当たる壁は、職員の意識改革である。いきなり「看取り介護」「ターミナルケア」を行えといっても、それに対する適切な準備がされていないのでは無理である。きちんと自分たちが看取り介護に係るために、看取り介護とは何か、そこでは何が求められ自分たちのすべきこと、求められる役割とは何か、具体的に何をどのようにするものなのか、という共通理解が不可欠である。そのために管理者等は研修を含めて準備を進めるわけであるが、その際に必ず表出する問題は介護職員等の不安感から生じてくる目に見えないバリアである。
特に介護職員が抱きやすい不安は主に次の3点である。
1.そもそも医療機関ではない場所で、死に臨むことが良いことなのか?
2.夜間、医師や看護職員がいないときに医療処置ができないから無理ではないか?
3.自分が夜勤のとき臨終場面に相対しても何をして良いかわからない。
これらの不安は、看取り介護というものがどのような状態を想定しているのかをイメージできていないから生ずる不安だろう。看取り介護の状態である=終末期である、という判断は、あくまで医師の判断によるもので、それ以外の者がその判断に容喙(ようかい)するようなことがあってはならず、それは病状が重篤だから高齢者には治療が必要ない」と判断されるものではなく、また「もう年だから」と年齢だけで終末期と決めてしまうものでもない。高齢者の積極的な治療は無駄だといった価値観は徹底的に排除されたうえで、人間として安らかに最期を迎える状態とはどのような状態かという観点から「医師が一般的に認められている医学的知見から回復の見込みなしと診断した者」であり、例えば「回復が期待できない嚥下困難か不可能な状態の時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能ですが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよい。」と判断させることもある。この判断基準については現在も医師個人による判断差があるところで、今後も議論が必要であることを否定しないが、こうした判断に基づいているという意味は「医療機関で対応すべき状況ではない」という意味も含まれており、死に臨む場面であっても必ずしも医療・看護処置が必要ではないということも表している。
だからその瞬間に家族と介護職員しかいない場面があるだろうし、介護職員しかいない場合もあるだろう。そうであってもそのこと自体は不適切ではなく、それまでの対応を含めて看取り介護をチーム全体でどのように支えてきたかが重要なことであり、そこでは対象者自身が、安らかにその瞬間を迎えられるように、手を握り、声をかけて、息を止める瞬間を「看取る」ことが我々に求められることであり、医師や看護師が対象者が息を止める瞬間まで常時そこにいないから「できない」という問題ではない。
ただこうした不安感を介護職員が抱くことは、ごく当たり前で正常な感覚で、むしろ「看取りの臨床」において、トップダウンの方針に何も疑問を感じないという方が危険な状態とも言え、管理者は、そうした不安に適切に答える理念と具体的方法論を作ることが大事だろう。
日本では現在8割以上の方が医療機関で「死」を迎えており、それが当たり前のように思われ、医療機関で亡くなる限りにおいて、その死の瞬間をどのように迎えたかは問題にすらならないが、医療機関であっても、ベッドで一人さみしく、誰からもその瞬間を看取られることなく逝ってしまった人は、本当に最期の瞬間に安らかであったのだろうか?医療器具で延命されて死にたどり着いた人々の人生の最終ステージは豊かな時と言えたのであろうか?ということも検証されてよいだろう。
しかし何度もこのブログで主張しているように、わずか半世紀前まで、日本人の8割が死をも変える場所は自宅だったのである。もちろんその背景には健康保険制度が充実しておらず医者にかかることができない人も多かった、入院出来なかった人が多かった、という要因もあろうが、専門医療のないところで、家族や親族に看取られながら安らかに息を引き取った方もたくさんおられるはずである。その時代より今の時代は格段に「進んだ時代」であると言われているが、同時に失ってしまったものはないのだろうか。
介護施設で看取るということは、何も終末期の医療を否定するものではない。医療機関の一般病棟で積極的な治療を受けながらも最期の時を迎えざるを得ない必要な人もいるだろうし、緩和ケア病棟で医師や看護職員の専門的管理のもとに終末期を過ごした方が良い人もいるだろう。
同時に医師や看護職員のサポートは必要としても、家族や介護職員で安らかな時間を過ごす支援を行いながら家族や介護職員が最期の瞬間まで看取ることがあってもよいケースは多いだろう。
旅立つ人々が最期の瞬間に求めているものは、冷たい聴診器や注射針ではなく、関係深い人々の暖かな手のぬくもりであるということから臨終に向かいあう介護職員の役割を考えることがあってもよいのではないだろうか。
ただし、そうした支援をできる条件は、看取り期に対する明確な理念と、安心・安楽の支援を行うことができる具体的方法論を持つ介護施設や事業者であらねばならないことは言うまでまなく、理念も知識も技術さえもない者が、そこに携わってはならないことも一面の真実として心しておかねばならない。
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医師や看護師がいない時間は在宅の場合も同様ですし、介護のプロがいるのですから家族はそれ以上を望むのなら医療機関へ移動させる選択をするのではないでしょうか。
最期の時にそばについていてくれたのなら、本当にありがとうございます、って御本人も御家族も心から思うはずです。それ以上望むことはないと思います。
施設で看取ってくださる方、医療機関ではできない看取り方があります。
病院では許されないことが施設では許されて、そのことで悔いのない最期が迎えられる場合もあります。不安ではなく自信を持って看取りの介護をしていただければ、と思います。