明日、東京都北区王子の「北とぴあ」で講演を行うため東京に向かう。帰道は19日になるため、明日から2日間はブログ記事の更新はお休みする予定である。(変更更新はあり得る)

ところで明日の講演では「自立とは何か〜よく生き、よく死ぬということ」というテーマを事務局からいただき、それに沿った内容のお話をする予定である。受講対象者は居宅介護支援に携わる介護支援専門員の方々が中心であるから、ケアマネジメントの中で考えるべき「自立」ということを主に考えてみた。勿論その内容は、僕の普段の考え方や、当施設や事業所の実践内容がベースにならざるを得ないもので、理想論や観念論ではないものだが、その中で事前資料として受講者の皆さんに「考えてほしこと」を問いかける内容の文章を書いて、事務局より事前配布していただくようお願いしている。

以下にその内容を示すので、皆さんも僕の問いかけの「答え」を一緒に考えていただきたい。

なおこの問いかけの僕なりの「答え」は次の更新記事で示したいと思う。

講演を聞かれる皆さんに考えてほしいこと。

一つの光景がある。ある特養の日常場面だ。面会に来たある家族が、車椅子をなかなか前に動かせない方に声をかけたところ「トイレ行きたい」と言われ、手を貸そうとすると職員から「その方は自分でトイレまでいけるので手を貸さないでください」と怒られたとする。

皆さんは、こうした状況を「当然」だと考えるのだろうか。僕はそうは思わない。
確かに自分でできることを自分で行い、頑張ることが保障され、機能活用して維持できる「生活スタイル」があるということは良いことと思う。しかしそれも時と場合によりけりで、排泄という行為に対してまで移動能力という機能活用を優先させることは疑問だ。

排泄という行為は、排せつ感覚が保たれ、トイレで排泄できることそのものが自立なのだ。排泄感覚が維持できて、訴えることができ、それがトイレでの排泄に繋がっているならば、いつも切迫するまで手伝わないという一律の対応が正しいとは思わない。

確かにその方は一生懸命車椅子を前に進めてトイレにたどり着いて間に合っているのかもしれない。間に合わない場合もパットをしているので大丈夫という理屈かもしれない。しかし、移動能力など別の場面でいくらでも機能活用できる。トイレまで行くために毎日、額に汗してぎりぎりまで「頑張る」ことが普通の生活ではないのではないか。気持ちよく排せつする支援は自立を阻害するのか?

せめて排泄のときくらい、我慢せずに「必要な支援」としての移動介助を行なってトイレで気持ちよく排泄してもらうのは悪いことか?こんなところまで頑張る必要もないし、頑張りを強要するのは虐待と紙一重だ。手を添えれば明日から移動能力が失われるわけではないだろう。こんな状況は、高齢者が頑張っているんではなく、頑張らねば寝たきりになる、という強迫観念をうえつけ精神的に追い詰めていることとなんら変わりはないのでは、と思ってしまう。

機能活用さえすれば良い、というのは間違いだ。その前にその人らしい、人間として当たり前の生活とは何か、という視点があるべきだろう。自分の親が、排泄のたびに、廊下やフロアを大変な時間をかけてトイレに通う姿を見るとして、なんとも感じない子がいるのだろうか?

しかし、かく言う僕の施設でも似たような状況に出くわすことがある。

車椅子を自走する方がトイレと訴える際に「頑張ってトイレまでこいできてください」と声かけるケアワーカーがいたりする。

本来、この時に最初にかけるべき言葉は「○○○○○○○?」ではないのか。

場合によっては何より早く移動できるように手伝うことが、この際の適切な支援である。普段、自走できている人に排泄まで絶対に自力移動を強いる必要はない。排泄感とは人にもよるが、それだけ切迫した状況があり得るものなのだ。移動できる人を安易に手伝わない、という意味と、この行為の支援を行わないこととは少し違う。

食事摂取も同様である。自分で食べることができる機能を大切にして維持することは必要だが、摂取状況によっては一概に援助が不適切とはいえない。わずか茶碗一杯のご飯と副食2品を食べるのに、1時間もかかるような摂食状況は好ましいものとは思えない。そもそもそのような時間をかけた結果ご飯やおかずが1時間後にどのような状態になるかは容易に想像できる。皆さんはそれを食べたいと思うだろうか?これでは美味しさとか、楽しみがほとんど感じることができない単なる栄養摂取の行為、かつ苦しい行為に変容してしまう可能性さえある。上肢機能の活用は食事摂取行為と絡めて考えれば、それはてっとり早い方法ではあろうが、本当にその人の生活のためになっているのか、という考察が出来ないと無意味である。

自立支援は介護サービスが目標とする具体像としては正しい理念だ。しかしそれは生活が良くなる、その人らしい生活が送れる、という結果を具体化した概念であると思う。

人間らしい生活に目を向けず、動作自立だけを考えてしまうことで見えなくなってくるものがある。ある行為について、介護者が行う行為か、利用者本人がご自分で行ってもらう行為か、これを2者択一でしか考えられないこと自体がナンセンス。確かに自立支援の視点や、完全にできる行為を安易に代行することで能力を奪わないという視点は重要だけれども、それだけがすべてではないということだ。人の生活とは一定の基準で判断できるものではなく、その時々の状況や気分で「揺れ動く」ものなのである。一律の線引きで答が出せるものではなく、そのときの利用者の顔を見て、声を聞いて、声なき声にも耳を傾けて、はじめて理解できることがある。

サービス担当者会議で決めたケアプランは、ある一定の基準であり、判断の目安であり、各職種間の共通言語ではあるが、それに縛られて利用者のサービスに応変の処置を欠いてはならない。

自分で出来ることも、やれない状態のときもあるんだ。やりたくないという気持ちを支援してほしいときもある。そこに心を配れるか、配れないかが介護支援専門員をはじめとした支援者の資質だろうと思う。自立とはそうした個別状況に常に配慮できる助けにより支えられるものだ。

※本文中の「○○○○○○○?」の中に当てはまる言葉を考えてみてください。

以上が事前配布資料の内容である。ブログ読者の皆さんも一緒に考えていただきたい。正解は一つではないだろうが、こういう形で日ごろのケアのあり方を問い直すことも必要だろう。コメント欄に答えを書いてくださればありがたい。

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