4/17(土)札幌の藤女子大学16条キャンパスで行われた「日本死の臨床学会北海道支部2010年度春の研究会」に参加してきた。

春の研究会は、ホスピス・緩和ケア病棟の看護師による事例発表に対し、会場との質疑による事例研究が中心で、医療関係者向けの専門的内容に偏っている傾向があるように思え、一般市民の受講者の方には分かりづらかったのではないかと思う。

特に事例発表内容に専門用語が多すぎ、その解説がないので、意味不明に感じる人がいただろう。

例えば「PS3とかPS4の区分、レスパイト入院、レスキュー、NRS、(薬剤の)早送り」etc.

福祉・介護関係者の方で、この言葉の全てを正しく理解している人がいるだろうか?ましてや一般市民なら何のことかわからない。専門学会ならともかく、公開フォーラムであるなら、発表者にもそれなりに専門用語の使い方や解説に関して配慮があってよいのではないかと感じた。

ところで、この研究会では、北海道医療大学大学院・看護福祉学研究科の石垣靖子教授が「こころが結ばれるケアを目指して」と題して特別講演を行った。この講演目当てに参加した人も多いだろうし、実は僕もその一人である。(それ以前に僕の場合は、道支部の常任世話人として総会から参加する必要があったという前提はあるが、この講演がなければ無理して日程調整しなかったかもしれない。)

石垣氏といえば、いわずと知れた有名人で、ターミナルケア、ホスピスケアに関する数々の著書を持つ先駆者であり、1992年には「エイボン女性大賞」も受賞されている方である。

講演自体は正味50分程度の短いものであったが、人のこころを大事にする姿勢が随所に垣間見られ、素晴らしい内容で感動した。しかも静かな語り口、偉ぶらない真摯な態度。講師の人間としての品格の高さを感じさせる格調高い講演であった。石垣先生をみて感じるのは、自分と引き比べてみると、とてもではないが比較対象にもならないほど自分が矮小化してしまような大きな存在だということである。自分は、このような素敵な年の取り方はできないだろうなと感じた。このような方には、できるだけお元気に長く第一線で活躍され続けていただきたいものだ。

さて研修会全体を通じて、面白い議論があった。それは死に対する不安感を訴える患者さんに対して、周囲の支援者がどのような言葉をかければよいのかということである。

死に対する恐怖・おびえ・否定感情を表す人々に対し、そのケアに係る人々はどのような言葉をかけたらよいのだろうか。僕もこの質問を突然浴びせられたら的確に答えることはできなかったろう。

当日、この研究会には牧師さん(もしかしたら神父さんかもしれない)も参加されていたが、会場から「宗教者として、そのような場面でどのような言葉をかけるのか?」という質問が出された。指名され回答のためマイクを握った方も、その場では明確な言葉が浮かばないと言われていた。そしてこの議論の中では、その場面にふさわしい模範解答となる答えは出されなかったが、その後の石垣教授の講演の中に僕はヒントを見つけた。

それはスピリチュアルケアの概念に触れた話の中から見つけた答えである。

ただしスピリチュアルケア(霊的支援あるいは全人的支援)というものとメンタルケア(精神的支援)の線引きをどこに置くのか、その区分は何か、そもそもスピリチュアルペイン(霊的苦痛)やスピリチュアルケアとは何か、ということを僕が明確に理解しているわけではない。しかし医療関係者が多く集まるターミナルケアに関する研修では最近盛んにスピリチュアルという言葉が使われていることは事実だから、単純に精神的問題に起因出来ない問題を、別の概念として分けているんだろう、と理解している。

そしてその意味は、人間には、死を覚悟しなければならない病状になったり、他人の世話にならなければ生きることができなくなった場合、「私の人生はいったい何なのだろうか?」といった問い、生きる意味に関する苦痛が生じる。これをスピリチュアルペイン(霊的苦痛)といい、そのことに対して人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守るために、身体的ケア・精神的ケア・心理的ケアを包括し、さらにその視点を凌駕した人間の究極的なケアを「スピリチュアルケア」と呼んでいるものではないだろうか。

おっと、話が横道にそれた。元に戻そう。

石垣教授が紹介された、シシリーソンダース(サンダースが正しい表記かもしれないが、先生はソンダースと言っていたのでそう表記する)の言葉に「スピリチュアルケアとは、分析的に説明する必要はない。受け入れるだけでよい。とする対応のことだ。」というものがあった。

死に対する恐怖感や、自分がおかれた立場に対する嫌悪感を訴える人々に、我々が何かを説明して、そのような感情を持つ必要がないと「励ます」ことは、それは相手にとってみれば、自分が今抱いている感情を否定されていることに他ならない。感情とは理屈ではないのである。それさえも否定されてしまえば、彼らの存在さえも否定してしまうことになりかねない。

我々が、そうした感情を吐露する人々に相対した時、我々に求められる態度は、その考えを否定したり、分析して説明することではなく、今その人たちがおかれた状況を理解して、そうした感情を抱く彼らの思いを受け入れ、ただ手を握り、背中をさすることではないかと思う。

理屈も、言葉も必要なく、ただそうした感情を持つ状況であることを受け入れ、理解しようとする態度ではないだろうかと感じた。

その場で我々がかける言葉はないのかもしれないが、あえてその言葉を探すとすれば「つらいのよね。怖いのよね。でも私はあなたの傍らにいつもいますからね。」なのかもしれないと思った。

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